発明 Vol.103 2006-10
知的所有権判例ニュース
数値限定発明における実施可能要件の
適合性について判断した事件
平成18年7月20日 大阪地方裁判所判決
平成17年(ワ)第2649号「特許権侵害差止等請求事件」

生田哲郎 美和繁男
1.事件の概要
 本件は、「水性接着剤」の発明(以下「本件発明」という)にかかる特許権(以下「本件特許権」という)を有する原告が、被告製品(水性接着剤)の製造販売は本件特許権を侵害すると主張して、被告に対し、被告製品の製造販売の差止め等を求めた事案です。
 本件訴訟においては、被告が実施可能要件違反を理由に特許の無効を主張したため、実施可能要件の適合性が争点となりました。本件発明は、数値限定発明であり、数値限定発明における構成に関する値をいかに調整するかにつき記載がない場合の実施可能要件の適合性について判断がなされたところから、出願実務者にとり参考になる判例といえます。

2.本件発明の内容
特許請求の範囲の記載
 本件発明は「水性接着剤」に関するものであり(特許第3522729号)、請求項1の特許請求の範囲の記載は次のとおりです。
『A シード重合により得られる
 B 酢酸ビニル樹脂系エマルジョンからなり且つ
 C 可塑剤を実質的に含まない
 D 水性接着剤であって、
 E 測定面が金属製の円錐−円盤型のレオメーターを用い、温度23℃、周波数0.1Hzの条件でずり応力を走査して貯蔵弾性率G'を測定したとき、その値がほぼ一定となる線形領域における該貯蔵弾性率G'の値が120〜1500Paであり、
 F 且つ測定面が金属製の円錐−円盤型のレオメーターを用い、温度7℃の条件でずり速度を0から200(1/s)まで60秒間かけて一定の割合で上昇させてずり応力τを測定したとき、ずり速度200(1/s)におけるずり応力τの値が100〜2000Paである水性接着剤。』
 なお、以下、一般的な貯蔵弾性率G'及びずり応力τと区別する趣旨で、測定面が金属製の円錐−円盤型のレオメーターを用い、温度23℃、周波数0.1Hzの条件でずり応力を走査して貯蔵弾性率G'を測定したとき、その値がほぼ一定となる線形領域における該貯蔵弾性率G'の値を「貯蔵弾性率G'a」、測定面が金属製の円錐−円盤型のレオメーターを用い、温度7℃の条件でずり速度を0から200(1/s)まで60秒間かけて一定の割合で上昇させてずり応力τを測定したとき、ずり速度200(1/s)におけるずり応力τの値を「ずり応力τa」ともいう。

3.裁判所の判断
 裁判所が判断した争点について重要部分の判示を紹介します。

明細書の実施可能要件の適合性
 裁判所は、改正前特許法36条4項(現36条4項1号)所定の明細書の実施可能要件について、以下のとおり解釈した上で、本件明細書は構成要件Eの貯蔵弾性率G'及び構成要件Fのずり応力τの数値を調整する具体的手段について、当業者が実施できるように記載されていないとして、明細書の実施可能要件に適合しないと判示しました。
(1)「改正前特許法36条4項の定めるいわゆる実施可能要件は、明細書の発明の詳細な説明に、当業者が容易にその実施をできる程度に発明の構成等が記載されていない場合には、発明が公開されていないことに帰し、自己の発明を公開することにより産業の発達に寄与した者に対しその代償として一定期間当該発明を独占的、排他的に実施し得る権利(特許権)を付与するという特許制度の前提を欠く事態を招くことから、これを明細書の記載要件としたものである。
 したがって、物の発明については、その物をどのように製造するかについての具体的な記載がなくても明細書の記載及び図面並びに出願時の技術常識に基づき当業者がその物を製造することができるような特段の事情のある場合を除き、発明の詳細な説明にその物の製造方法が具体的に記載されていなければ、実施可能要件を満たすものとはいえないというべきである。
 そして、本件のような数値の範囲を限定した特許については、当業者に対し、複数の数値を所定の範囲内に調整するために過度の試行錯誤を強いることなく実施し得る場合でなければ、実施可能要件を充足するということはできない」

(2)「……本件明細書の発明の詳細な説明の記載によると、従来、揮発性を有する可塑剤を含まない酢酸ビニル樹脂系エマルジョンからなる水性接着剤であっても、エチレン−酢酸ビニル共重合体エマルジョン中で酢酸ビニルをシード重合して製造する方法によって得られる水性接着剤であれば、優れた低混成膜性及び接着強度を得ることはできたが、他方、シード重合により得られる酢酸ビニル樹脂系エマルジョンからなる水性接着剤は、可塑剤含有水性接着剤と比較して、一般に冬場にはノズル付き容器から押し出しにくく、夏場には垂直面や天井に塗った場合に垂れやすい、という欠点があり、通年で使用できるものはなかったところ、本件発明は、シード重合により得られる酢酸ビニル樹脂系エマルジョンからなる水性接着剤であっても、容器のノズル先から容易に押し出すことができる押し出し性と、比較的高温下において垂直面に適用しても垂れにくい耐垂れ性を両立した水性接着剤を提供することを目的とするものである。そして、この目的を達成するための手段として、まず、水性接着剤の貯蔵弾性率G'とずり応力τを特定範囲に調整すると、ノズル付き容器に充填した場合に、冬場であっても押し出しやすく、高温下であっても垂れにくいことを見いだし、この知見に基づいて、本件発明に係る水性接着剤は、特許請求の範囲の【請求項1】に規定するとおりの構成、……とする水性接着剤を提供することとしたものである。
 そして、本件明細書には、貯蔵弾性率G'a及びずり応力τaの数値の調整方法に関して、『重合開始剤の種類、添加量、添加時期及び添加方法、保護コロイドや界面活性剤の種類及び添加量など』が特に重要であるとの記載があり(段落【0046】)、さらに、『重合開始剤は、重合の初期(例えば、使用する酢酸ビニルモノマーの半量を系内に添加するまでの期間)に、全使用量の60重量%以上、特に65重量%以上を系内に添加するのが好ましい。』とされており(段落【0024】)、このような重合開始剤の添加時期及び量に関する記載がある。
 また、本件発明について、実施例及び比較例を含めてすべてn−ブチルアクリレートが添加されているが、実施例は、ポリビニルアルコール(PVA)、酒石酸、水を加えて溶解させ、PVAが完全に溶解した後、エチレン−酢酸ビニル共重合体エマルジョン(EVAエマルジョン)を添加した後、n−ブチルアクリレートを添加し、更に触媒(35重量%過酸化水素水)を全量(実施例1及び2)ないし2分の1(実施例3)添加し、その後、過酸化水素水を水に溶解させた水溶液からなる触媒と、酢酸ビニルモノマーを滴下し重合させ(実施例1ないし3)、あるいはこの時点で、残りの触媒を添加し(実施例3)て重合する方法が開示されており、比較例とは用いる触媒が異なる(比較例1)、ポリビニルアルコールの種類が異なる(比較例1、比較例3)等の相違点があるほか、比較例ではすべて、触媒を酢酸ビニルモノマーと同時に連続的に滴下しており、実施例のように一括して添加していないという相違点のあることが認められる。
 このように、本件発明は、耐垂れ性と押し出し性を両立するという課題を解決することを目的とするものであり、その目的を達成するために重要なことは、垂れ性を規定する貯蔵弾性率G'と、押し出し性を規定するずり応力τの値を、構成要件E及びF所定の値に調整することにあることは、上記のとおり明らかであり、その点が本件発明の最大の特徴であるということができる。
 そうである以上、本件明細書に、構成要件E及びF所定範囲の貯蔵弾性率G'a及びずり応力τaを備える水性接着剤について、当業者が特別な知識を付加することなく、また、当業者に過度の試行錯誤を強いることなく、本件明細書の記載と技術常識に基づいて製造できるように記載されていなければ、本件明細書は実施可能要件を充足することにはならない」

(3)「……原告は、本件特許出願の審査過程において、可塑剤を含まない水性接着剤につき、押し出し性及び耐垂れ性というような相矛盾するとも思われる性質を貯蔵弾性率G'及びずり応力τを構成要件E及びF所定の特定の範囲に調整することによって両立し得ることを初めて見いだしたのが本件発明であること、そして、特に、重合開始剤(触媒)を重合初期に多量に(例えば全使用量の60重量%以上)使用することによって貯蔵弾性率G'a及びずり応力τaを所定の範囲に調整することができると主張していたことが認められる」
 「ところが、本件発明の特許請求の範囲の記載は、触媒の添加方法については何らの限定もしていない。本件明細書の段落【0024】においても『重合開始剤は、重合の初期(例えば、使用する酢酸ビニルモノマーの半量を系内に添加するまでの期間)に、全使用量の60重量%以上、特に65重量%以上を系内に添加するのが好ましい。』と記載されてはいるものの、それ以外の製造方法を排除する旨の記載はなされていない。
 他方において、本件明細書の詳細な説明の欄には、段落【0024】【0046】に、貯蔵弾性率G'aとずり応力τaの2つの数値を調整する主要な要素を示す記述があるが、実施例として具体的な発明の実施の形態が記載されている以外には、貯蔵弾性率G'aとずり応力τaの2つの数値を調整する具体的手段を示す記載はない。
 そして、製造方法が開示されている実施例は3件にすぎず、その内容は、……、重合開始剤(触媒)に35重量%過酸化水素水を用いて、これを重合初期に多量(全量又は2分の1)に一括添加した後、過酸化水素水を水に溶解させた水溶液からなる触媒と酢酸ビニルモノマーを連続滴下して重合させ、あるいはこの時点で残りの触媒を添加して重合する場合のみであって、当業者が触媒を重合の初期に多量に用いないで本件発明を実施しようとした場合に、本件明細書の段落【0046】に記載されている多くの要素をどのように調整すればよいのかについては、本件明細書の発明の詳細な説明の記載中にはこれを示唆するものもない。なお、比較例についてみれば、比較例2は貯蔵弾性率G'a、比較例3はずり応力τaにおいて、本件発明の所定の数値の範囲内に入ってはいる。しかし、一般に比較例とは、当該発明の実施例に比較して効果の劣る従来技術に基づく発明を記載し、当該発明の従来技術との差異を明確にするために記載するものであるから、比較例間の細かな差異をもって、発明の実施形態を開示していると認めることは困難であるというべきである。したがって、当業者において、重合初期に触媒(過酸化水素水)を多量に使用しない場合に、貯蔵弾性率G'a及びずり応力τaを調整する手段が本件明細書に開示されているものと理解することは困難であるというべきである。現に、本件においても貯蔵弾性率G'a及びずり応力τaという2つの数値を所定の範囲に調整するために、製造条件をどのように変更すればよいのかは、本件明細書上全く触れられていない。
 また、本件明細書に記載がなくても、当業者が触媒(過酸化水素水)を重合の初期に多量に使用しない場合において、本件特許出願当時の技術常識に基づいて貯蔵弾性率G'a及びずり応力τaの値を所定の範囲内に調整することができると認めるに足りる特段の事情もない。
 以上によれば、本件明細書の記載によっては、触媒(過酸化水素水)を重合の初期に多量に使用しないという製造方法を用いる場合において、当業者において、特別な知識を付加することなく、また、当業者に過度の試行錯誤を強いることなく、貯蔵弾性率G'a及びずり応力τaの値を構成要件E及びF所定の範囲内に調整する具体的手段について、当業者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載されているとはいえず、改正前特許法36条4項所定のいわゆる実施可能要件を充足するとは認められないというべきである」

4.検討
明細書の実施可能要件の適合性
 裁判所は、改正前特許法36条4項(現36条4項1号)所定の明細書の実施可能要件について、「本件のような数値の範囲を限定した特許については、当業者に対し、複数の数値を所定の範囲内に調整するために過度の試行錯誤を強いることなく実施し得る場合でなければ、実施可能要件を充足するということはできない」とした上で、本件明細書は、貯蔵弾性率G'a及びずり応力τaの値を構成要件E及びF所定の範囲内に調整する具体的手段について、当業者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載されているとはいえず、明細書の実施可能要件に適合しないと判示しました。
 本件の場合、明細書には「貯蔵弾性率G'及びずり応力τは、シードエマルジョンの種類や添加量、シード重合に用いる酢酸ビニルの添加量、前記酢酸ビニル以外の重合性不飽和単量体の種類、添加量、添加時期及び添加方法、保護コロイドや界面活性剤の種類及び添加量、重合開始剤(触媒)の種類、添加量、添加時期及び添加方法、前記添加剤の種類や添加量、重合温度、重合時間などの重合条件を適宜選択することにより調整できる」と記載しているのみでした。
 上記のような多数挙げられた諸要素を調整して、貯蔵弾性率G’a及びずり応力τaの値を本件請求項の数値範囲内とすることは、過度の試行錯誤を行うことなしには一般には困難と解されますので、当初明細書でこの点を可能な限り具体的に開示すべきであったといえます。
 また、本件では、実施例が3つ記載されていますが、裁判所は、重合の初期に触媒を多量に用いる場合の実施例のみが開示されている点を指摘して、「重合当初に触媒(過酸化水素水)を多量に使用する方法で製造する場合に、貯蔵弾性率G'a及びずり応力τaを本件発明の構成要件E及びFの所定の範囲内に調整することが当業者にとって実施が可能であったとしても、そのような製造方法に限定されない広範な種々の水性接着剤を包含する本件発明が実施可能要件を充足しているということはできない」と判示しました。
 本件は広範な技術的範囲を含む特許の場合には、その範囲をカバーするに十分な実施例を記載すべきというある意味当然の事項を明示するものであり、明細書の記載をなすにあたって十分に留意すべき点といえます。


いくた てつお
 1972年東京工業大学大学院修士課程修了、技術者としてメーカーに入社。82年弁護士・弁理士登録後、もっぱら、国内外の侵害訴訟、ライセンス契約、特許・商標出願等の知財実務に従事。この間、米国の法律事務所に勤務し、独国マックス・プランク特許法研究所に在籍。

みわ しげお
 東京大学工学部卒業。2003年弁護士登録。同年より生田・名越法律特許事務所において知的財産権侵害訴訟、ライセンス契約等の案件に従事。