知的所有権判例ニュース |
会社の発明考案取扱規程に基づく 実施補償金の支払いは 債務の承認に該当しないと判示した事例 |
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「東京地方裁判所 平成18年5月29日判決 平成16年(ワ)第23041号事件」 |
生田哲郎・森本晋 |
1.事件の概要 |
(1)本件は、被告会社の従業員であった原告が、印字装置の花弁型タイプホイールのカセット化に関する発明にかかる特許権(日本国特許第1331016号他10件の特許権であり、米国、イギリス、ドイツの特許権を含む)について、これら発明が職務発明に該当し、特許を受ける権利を被告会社に承継させたとして、被告会社に対し、特許法35条3項の相当の対価のうち、一部請求として計1億円の支払いを求めた事案です。
本判決は、原告の請求を一部認容し、被告会社に対して1222万円余の支払いを命じました。 (2)職務発明の相当対価支払請求事件においては、従業者が会社を退職した後に訴訟を提起するケースが通常であることから、相当対価支払請求権について消滅時効が完成しているのではないかということが問題となるケースが多く見られます。具体的には、 《1》消滅時効の起算点がいつか 《2》消滅時効の期間は何年か 《3》会社の債務の承認(民法147条3号)により消滅時効が中断したのではないか が争点となります。 本判決もこれら3つの争点について判断していますが、《3》の債務の承認にかかる争点についての本判決の判断は、味の素事件判決(東京地判平成16年2月24日判時1853号38頁)の(時効の完成後の)債務の承認(時効援用権の喪失)に関する判断との関係が問題となると思われることから、ここに取り上げます。 |
2.裁判所の判断 |
(1)消滅時効
本判決は、原告の請求権の一部について消滅時効が完成していると判断しました。 消滅時効に関する論点についての本判決の判断は以下の通りです。 《1》消滅時効の起算点 「勤務規則等に、使用者等が従業者等に対して支払うべき対価の支払時期に関する条項がある場合には、その支払時期が相当の対価の支払を受ける権利の消滅時効の起算点となる」(最判平成15年4月22日民集57巻4号477頁、オリンパス光学工業事件)。 「そして、……勤務規則等において、相当の対価につき、特許権の存続期間中、一定の期間ごとに特許発明の実施の実績に応じた額を使用者等から従業者等に支払う旨の定めがなされている場合には、……各期間の特許発明の実施の実績に応じた額の支払時期が、相当の対価の支払を受ける権利のうち、当該期間における特許発明の実施に対応する分の消滅時効の起算点となる」 《2》消滅時効の期間 「職務発明に係る相当の対価の請求権は、特許法35条により従業者に認められた法定の権利であるから、商行為によって生じた債権には当たらず、消滅時効期間は10年と解すべきである」 《3》債務の承認による時効中断 「原告は、被告による実施補償金の支払が時効の中断事由である『承認』に該当すると主張する。しかし、民法147条3号所定の『承認』とは、時効の利益を受ける当事者が、時効によって権利を失うものに対し、その権利の存在していることを知っている旨を表示することをいう。本件において、被告は、原告に対し、被告規程に基づいて実施補償金を支払ったものであるところ、被告が、実施補償金の支払をした際に、原告が、特許法35条3項に基づいて、本件各発明に係る特許を受ける権利の相当の対価の支払を求める権利を有すること、すなわち、被告規程による上記補償金額が同条4項(注:改正前)の規定に従って定められる額に満たないことを知っていたとは認められないから、被告による実施補償金の支払は、民法147条3号所定の『承認』に当たるということはできない」 (2)使用者等が受けるべき利益の額 被告会社は4社に本件各特許権の実施許諾を行っており、これら4社から得た実施料のうち、原告の請求権の消滅時効が完成していない平成5年度から10年度までの期間における特許発明の実施に対応する実施料は4931万円余と認定しました(外国特許権によるものを含めて算定すること、及び、実施料収入に対する本件各発明の寄与度が同等であることについては、当事者間に争いがないとされています)。 (3)使用者等が貢献した程度 本判決は以下の事情を総合考慮して、被告会社の貢献度を70%と認定しました。 1)被告会社の寄与度を高める方向に働く事情 《1》「原告は、そのプリンタ分野における専門知識や技能等を評価されて被告に入社したものであり、本件各発明が行われたのは、原告がA社に派遣されていた時期であるところ、原告の派遣は、被告とA社との間に締結された本件技術協力契約及び本件覚書に基づき、A社への技術協力を行うために行われたものであり、その際、技術協力の目標となる、プリンタの製品仕様も定められたのであるから、原告は、本件各発明を行うことが期待される地位にあり、そのための職場での支援環境が整えられていた」(下線部筆者。以下同じ)。 《2》「原告は、昭和24年から昭和52年まで、公社(注:日本電信電話公社)に勤務し、プリンタの研究に携わっていたのであり、公社は、我が国における技術の先導役として多くの研究開発に取り組んできた機関であって、原告のプリンタ分野における専門知識や技能は、そのような公社において養成されてきたということができるところ、被告は、公社との間に技術指導基本契約を締結しており、個別契約を締結して技術指導料を支払うことにより公社から技術指導を受けることのできる地位にあったのであるし、公社と被告との密接な関係からすれば、原告も公社研究所の出身者として、公社研究所在籍の研究者等との交流や意見交換の機会を設けることが通常以上に可能であると考えられるのであって、こういった恵まれた研究環境の享受は、被告の従業員であったことによるところが大きいということができる」 《3》「被告は、原告に対し、給与、賞与等として、原告と同時期に被告に入社した同年代の従業員より1400万円以上多額の金員を支給していたものであり、待遇の面でも、原告が研究開発に専念できる環境を整備していたといえる」 2)被告会社の貢献度を低める方向に働く事情 「しかし、他方、本件プロジェクトの企画は、専らA社によって行われ、被告は関与しておらず、また、本件プロジェクトには、被告の施設は用いられることなく、原告以外の被告の従業員も直接関与せず、被告は原告に対する給与等の支給以外は何らの支出もしていないのであり、かえって、被告は、本件技術協力契約により、A社から月額85万円を得ることとされており、技術協力の目標性能を具備したプリンタの開発実用化が成功し、その製品化が可能であるとA社が判断した場合には、A社から1000万円の成功報酬を得ることとされていたものである。さらに、本件各発明の特許出願に関する事務手続は、主としてA社が行い、被告は、原告を通じて報告を受けるのみであり、本件各特許権に関するB社等との交渉や実施許諾契約の締結も、主としてA社が行い、被告は、A社から報告を受けるのみであった。したがって、被告は、本件各発明に係る研究開発に関し、新たな設備投資や人員配置を行うことなく推移しており、当該研究開発の成否についてのいわゆるリスクを負担したものとは認められず、また、本件各特許権の権利化等に関しても、積極的な寄与を認めることはできない」 (4)「相当の対価」の額 本判決は、被告会社が受けるべき利益額4931万円余から被告が貢献した程度70%を控除した1479万円余から、原告に対する支払い済みの実施補償金257万円余(原告の請求権の消滅時効の完成していない平成5年度から10年度までの期間における特許発明の実施に対応する分に限る)を更に控除した1222万円余を「相当の対価」の不足額であると判断しました。 |
3.検討 |
(1)本判決は、被告会社の社員発明考案取扱規程に基づく実施補償金の支払いは、民法147条3号所定の債務の承認には該当しないとしました。 (2)これに対し、味の素事件判決は、被告会社が、会社の規程を改定し、これを原告の発明についても遡って適用して、消滅時効の完成後に特許報奨金(実績補償の性質を有すると認定された)を支払っていた事案において、以下のように判示しています。 「これらの特許報奨規程の制定と発明等取扱規程の改定及びそれに基づく特許報奨金は、前記3(6)の通り、いわゆる実績補償の性質を有するものであり、特許法35条3項、4項所定の相当の対価の一部に当たると解される。したがって、その支払は、相当の対価の支払債務について時効が完成した後に当該債務を承認したものというべきであるから、被告が当該債務について消滅時効を援用することは、信義則に照らし許されないものと解するのが相当である」 (3)両判決は、同じ実績補償の支払いについて、一方が(時効完成後の)債務の承認に該当すると判示し、他方が債務の承認には当たらないと判示しており、一見矛盾するかのようにも思えます。 (4)この点、味の素事件は、被告会社が規程を改定し、これを原告の発明に遡及適用し、あえて消滅時効の完成していた相当の対価の支払債務に対する支払いを行ったという特殊な事案であり、この被告会社の行為を捉えて、従来の原告に対する補償金額が相当の対価に満たないことを知って行われたものということができる、と説明することが考えられます。 (5)あるいは、本判決の事案では、各年度の実績補償金額が当該年度について本来支払われるべき相当の対価に満たないときは、各年度の不足額について相当対価「不足額」支払請求権が各年度ごとに発生すると考えると、後の年度の実績補償の支払いは前の年度の相当対価の不足額の支払いではないので、後の年度の実績補償の支払いが前の年度の相当対価「不足額」支払債務に対する債務の承認に該当することはないと考えることができそうです。 これに対し、味の素事件の事案では、権利を被告会社に承継させた時点では勤務規則等に対価の支払時期に関する条項がなかったことから、特許法35条3項の規定に基づく相当対価支払請求権は、その全額について、権利を承継させたときから消滅時効が進行することとなり、時効完成後の実績補償の支払いは、この相当対価支払債務の一部の履行にほかならず、(時効完成後の)債務の承認に該当すると考えることができそうです。 ただ、以上の説明では、特許法35条3項の規定に基づく相当対価支払請求権(特許を受ける権利の承継時に一体のものとして発生する)と、相当対価「不足額」支払請求権とを区別して考えることになりますが、そのような区別はあまりにも技巧的なようにも思われます。 (6)職務発明の対価支払請求における消滅時効の論点については、更なる判例の蓄積と学説の展開が待たれるところです。 いくた てつお 1972年東京工業大学大学院修士課程修了、技術者としてメーカーに入社。82年弁護士・弁理士登録後、もっぱら、国内外の侵害訴訟、ライセンス契約、特許・商標出願等の知財実務に従事。この間、米国の法律事務所に勤務し、独国マックス・プランク特許法研究所に在籍。 もりもと しん 東京大学法学部卒。2002年弁護士登録。生田・名越法律特許事務所において、知的財産権侵害訴訟、ライセンス契約等の案件に従事。日弁連知的財産政策推進本部委員。 |