知的所有権判例ニュース |
液晶組成物発明において,特許請求項に記載された 一般式に規定された非カイラル化合物以外の 非カイラル化合物を含む液晶組成物の 侵害判断基準が示された事例 |
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平成16年2月20日 東京地裁判決 平成14年(ワ)第25697号 特許権侵害に基づく損害賠償請求事件 |
生田哲郎 |
第1 はじめに |
本件は,「液晶組成物」に関する特許権を有する原告が,被告の製造販売する液晶組成物は,原告の特許権の技術的範囲に属するとして,被告に対し,被告製品の製造販売による特許権侵害を理由とし,損害の賠償を求めている事案です(なお,本件当事者間において,関連事件として同一の特許権の侵害を理由とする侵害差止請求事件〈平成14年(ワ)第25696号〉が係属して,本判決と同日付で,原告の請求を棄却する判決が下されています)。本判決は,液晶ディスプレイ用の液晶組成物の世界の2大メーカー間の特許係争案件であったこと,及び,請求された損害賠償金額の大きさから,その行方が大変注目された事案でした。
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第2 事案の概要等 |
1 本件特許発明の構成要件
原告保有の第2965229号特許権(以下「本件特許権」という。)の請求項1の記載から,その構成要件は次のとおりでした。 A 一般式(I)で表される非カイラル化合物と, B 一般式(II)又は一般式(III)で表されるカイラル化合物とからなる, C シアノ基含有化合物を含まない, D アクティブマトリックス用ネマチック液晶組成物 E 本液晶組成物中のカイラル化合物の吸着剤に対する吸着性は,本液晶組成物中の非カイラル化合物の吸着剤に対する吸着性よりも大きくない, F 液晶組成物に対する重量比が1.0%の吸着剤で精製処理した場合,らせんピッチの精製処理による変化P/Poが1.10より小さい(ここで,Poは25℃において測定した吸着剤処理前の液晶組成物のらせんピッチであり,Pは25℃において測定した吸着剤処理後の液晶組成物のらせんピッチである) G 別紙2記載の組成物A又は組成物Bに1重量%の4−〔トランス−4−(トランス−4−プロピルシクロヘキシル)シクロヘキシル〕−1−(1−メチルヘプチルオキシ)−2,6−ジフルオロベンゼンをカイラル剤として添加した液晶組成物を除く 2 被告製品の構成 被告製品として,原告は,判決文添付の別紙1「物件目録」記載の製品(以下「被告製品」という。)を製造,販売していると主張しましたが(ただし,別紙4「対象物件認否表」のとおり,別紙1「物件目録」《10》,《11》の販売については争いがありました。),いずれも一般式Iに該当する非カイラル化合物の混合物に,一般式IIまたはIIIに該当するカイラル化合物を添加したTFT方式用ネマチック液晶組成物(計十数種)でした。これらの被告製品のうちには,エステル基含有化合物である非カイラル化合物を含む被告製品が含まれておりました。 3 本事案の争点 本事案では,以下の如く多くの争点が被告側から提示された事案でした。本解説では,紙幅の関係より,構成要件Dの「液晶組成物」に,クレームに規定された一般式の定義に該当しない「エステル基含有化合物」を含む液晶組成物たる被告製品が侵害となるか(下記の争点1−《1》)が,大きな争点になりました。本解説では,この争点の侵害判断に関してのみ説明いたします。 《1》 構成要件Dの充足性 ア 構成要件Dにおける「液晶組成物」にエステル基(−COO−)含有化合物を含む液晶組成物が含まれるか(争点1−《1》)。 イ 構成要件Dの「液晶組成物」は液晶組成物の製造過程において混入した不純物を含有する半完成品たる液晶組成物を意味するか(争点1−《2》)。 《2》 構成要件Eの充足性(争点1−《3》) 「カイラル化合物の吸着剤に対する吸着性は,非カイラル化合物の吸着剤に対する吸着性よりも大きくない」との解釈(非カイラル化合物が複数の化合物の混合物である場合において,個々の非カイラル化合物の吸着性とカイラル化合物との吸着性を対比することを意味するかどうか)について 《3》 構成要件Fの充足性(争点1−《4》) 「精製処理によるらせんピッチの変化P/Po」の解釈について (2) 本件特許権には無効事由が存在することが明らかであり,本件特許権に基づく原告の請求は権利の濫用に当たり許されないか(争点2)(なお,以下「特許法」という場合,特に断らない限り,平成6年法律第116号による改正前の特許法をいう。) 《1》 特許法29条の2違反について(争点2−《1》) 《2》 特許法29条1項2号(公然実施)の有無(争点2−《2》) 《3》 特許法29条2項(進歩性)の欠如の有無(争点2−《3》) 《4》 特許法36条4項又は5項違反について(争点2−《4》) 《5》 特許法126条2項又は3項違反(訂正要件違反)について(争点2−《5》) (3) 自由技術の抗弁又は先願特許実施の抗弁(争点3) |
第3 争点に関する当事者の主張 |
1 争点1(被告製品は,本件特許発明の技術的範囲に属するか)について
(1) 争点1−《1》(構成要件Dの「液晶組成物」にエステル基(−COO−)含有化合物を含む液晶組成物が含まれるか)について (原告の主張) ア 本件明細書には,「エステル基含有化合物」を排除する旨の記載はなく,エステル基含有化合物を含む液晶組成物も,本件特許発明の技術的範囲に含まれる。 イ(ア) 本件特許発明は,一般式(I)で表される非カイラル化合物と一般式(II)又は(III)で表されるカイラル化合物からなる組成物の発明であり,このような組成物に第三成分を単に付加しただけの組成物は,当然,その技術的範囲に属する。本件明細書の特許請求の範囲に記載される一般式(I)の非カイラル化合物にエステル基含有化合物が含まれないとしても,エステル基含有化合物を含む一般式(I)以外の非カイラル化合物が液晶組成物に含まれれば直ちに本件特許発明の技術的範囲から外れるものではない。AとBとからなる組成物の発明に対して,第三成分Cを付加するだけの発明は,一般的にAとBとからなる組成物の発明の技術的範囲に属するというべきである。 (イ) 本件特許発明の作用効果は,アクティブマトリックス駆動の液晶表示素子に要求される高い電圧保持率を有し,かつ吸着剤処理等による精製によっても,らせんピッチの延長を生じないような液晶組成物が得られることにあるが,液晶組成物中にエステル基含有化合物が40%程度まで含まれていても,高い電圧保持率,らせんピッチの延長防止のいずれの点においても作用効果に違いは生じない。このことは,本件明細書の発明の詳細な説明の段落【0037】の表1及び段落【0039】の表2に示される実験結果における,混合物A−1(シアノ基を有する非カイラル化合物もエステル基含有化合物も含まない本件特許発明の液晶組成物),混合物B−1(非カイラル化合物成分がすべてシアノ基を有する非カイラル化合物である液晶組成物),混合物C−1(非カイラル成分がすべてエステル基含有化合物である液晶組成物)の電圧保持率の対比からも把握できる。 したがって,本件特許発明は,エステル基含有化合物が40%程度まで含まれている液晶組成物を排斥するものではない。 ウ 以上のとおりであるから,エステル基含有化合物を含む液晶組成物であっても,本件特許発明の技術的範囲に含まれる。 (被告の主張) ア 本件明細書の特許請求の範囲【請求項1】における一般式(I)の定義によれば,結合基としてエステル基は選択されていない。また,本件明細書の発明の詳細な説明段落【0040】には,「−CN基やカルボン酸エステル構造を官能基として有する化合物は,得られる液晶素子の電圧保持率を高く維持するという観点からは本発明の非カイラルな成分として不適当である。」との記載があり,エステル基含有化合物を含む液晶組成物は,本件特許発明の技術的範囲に属しないことを明らかにしている。 イ また,本件明細書を精査しても,エステル基含有化合物が40%程度まで含まれている液晶組成物であっても,本件特許発明の効果が発揮される限り,本件特許発明の技術的範囲に属することを示唆する記載はない。 したがって,本件特許発明の技術的範囲には,エステル基含有化合物を含む液晶組成物は含まれないものと解釈せざるを得ない。 |
第4 当裁判所の判断 |
1 争点1−《1》(本件特許発明の「液晶組成物」にエステル基(−COO−)含有化合物を含む液晶組成物が含まれるか)について
(1) 本件明細書の【特許請求の範囲】中の【請求項1】の記載によれば,構成要件Dにおける「液晶組成物」は,「一般式(I)で表される非カイラル化合物」と,「一般式(II)または一般式(III)で表されるカイラル化合物とからなる・・・・・・アクティブマトリックス用ネマチック液晶組成物」とされている。 そして,本件明細書の特許請求の範囲【請求項1】の一般式(I)で表される非カイラル化合物については,別紙2のとおり,「・・・・・・X,YおよびZはそれぞれ独立に単結合,−CH2−CH2−,−OCH2−または−CH2O−を示し,R1およびR2は,それぞれ独立に,H,CnH2n+1−,CnH2n+1O−もしくはCnH2n+1−O−CkH2k−(ただし,nおよびkはそれぞれ独立に1ないし18の整数である),またはCnH2n−1−,CnH2n−1O−,CnH2n−1−O−CkH2k−,CnH2n−3−,CnH2n−3O−もしくはCnH2n−3−O−CkH2k−(ただし,kは上記と同じ,nは2ないし18の整数である)を示し,(n+k)≦18であり,該式における少なくとも一つのH原子はF原子で置換されていてもよい。」と記載されており,上記一般式(I)におけるX,Y,Z,R1,R2の選択肢からすると,本件非カイラル化合物にはエステル基は含まれないと解される。 したがって,本件特許発明の特許請求の範囲における液晶組成物のうち,一般式(I)に記載の非カイラル化合物に,エステル基含有化合物が含まれないことは,明らかである。 (2)ア 原告は,本件特許発明は,一般式(I)で表される非カイラル化合物と一般式(II)又は(III)で表されるカイラル化合物からなる組成物の発明であり,このような組成物に第三成分を単に付加しただけの組成物は,当然,その技術的範囲に属する旨主張する。 しかし,上記のとおり,本件明細書の特許請求の範囲においては,本件液晶組成物が,一般式(I)で表される特定の非カイラル化合物と,一般式(II)又は同(III)で表される特定のカイラル化合物とからなることを明示しているのであるから,本件特許発明においては,液晶組成物を構成する非カイラル化合物とカイラル化合物は,それぞれ当該一般式(I)及び同(II),(III)に明示される化合物からしか選択し得ないと解するのが合理的である。 したがって,当該選択の範囲を超えて,エステル基を有する非カイラル化合物が第三の成分を混合し得るという原告の主張は,到底採用できない。 イ さらに,原告は,エステル基含有化合物が40%程度含まれていても,高い電圧保持率,らせんピッチの延長防止のいずれの点においても作用効果に違いはないから,本件特許発明は,エステル基含有化合物が40%程度まで含まれている液晶組成物を排斥するものではない旨主張する。 しかし,そもそも,一般的に作用効果が同じであれば特許請求の範囲に属するものであるということはいえない上,40%程度以下ならば混合されていてもよいとする根拠についても,本件明細書における発明の詳細な説明に何ら記載はないから,原告の主張を採用することはできない。 2 したがって,非カイラル化合物にエステル基含有化合物を含むことが明らかである別紙1「物件目録」《3》,《7》及び《9》の製品については,いずれも構成要件Dを充足しない。 |
第5 検討 |
1 本誌2005年2月号で取り上げた平成14年(ワ)第16268号事件では,発明の対象物たる合金において請求項に明示されていない第三金属成分を含む被告製品の非侵害判断が下されました。確かに合金の場合には,「合金は成分元素や添加量を変化させた場合に合金の性質に与える予測可能性が極めて低い」という事案であるのに対して,本件発明の液晶組成物の場合には,混合物であり,第三成分を追加しても必ずしも組成物の性質が大きく変わることが少ないと予測されるという本質的な違いがある事案でした。事実,原告は,40%程度以下なら一般式Iで定義される以外の該エステル基含有非カイラル化合物が含有されていても,発明の効果があることを示す実験データを証拠提出しておりました。
2 本事案の場合,さらにエステル基含有化合物を含有してもよいと解される根拠として主張しうる形式的な根拠がありました。それは,本件明細書中で共に不適当と記載されたエステル基含有化合物とCN基含有化合物のうち,請求項で「CN基含有化合物を含まない」という構成要件Cをわざわざ規定していました。かかる請求項記載の反対解釈から,特許権者は,エステル基含有化合物は本件発明の組成物から除外しないとの意図を有していたものとも解されます。 3 しかし,本判決は上記の如く,「本件明細書の特許請求の範囲においては,本件液晶組成物が,一般式(I)で表される特定の非カイラル化合物と,一般式(II)又は同(III)で表される特定のカイラル化合物とからなることを明示しているのであるから,本件特許発明においては,液晶組成物を構成する非カイラル化合物とカイラル化合物は,それぞれ当該一般式(I)及び同(II),(III)に明示される化合物からしか選択し得ないと解するのが合理的である。」として,特許権者の主張を退ける判断を下しました。 4 もし本件明細書中で,エステル基含有化合物が不適当であると明記されていなかった場合や任意成分として含有しうるという記載があった場合でも本件判決のような判断になるのかは議論の余地がありそうです。いずれにしても本判決は,混合物に関する第三成分の添加の場合の侵害判断として,非常に参考になる判断だと思われます。なお本事案は東京高裁に控訴されましたが,特許権者の主張を退けた地裁判決が支持されました(東京高裁平成16年(ネ)第1589号)。 |