知的所有権判例ニュース |
「生体高分子−リガンド分子の 安定複合体構造の探索方法」事件 |
---|
「平成16年2月27日 東京高裁判決 平成15年(ネ)第1323号事件」 (第一審:平成15年2月6日 東京地裁判決 平成13年(ワ)第21278号事件) |
生田哲朗 森本晋 |
第1.事件の概要 |
本件は,特許権者と専用実施権者が共同原告として特許権侵害行為の差止請求訴訟を提起した事例です。第一審判決は,特許権者の請求について,専用実施権を設定した特許権者は専用実施権の範囲においては差止請求権を行使できないとしてこれを棄却しました。また,専用実施権者の請求については,被告方法はいずれも本件特許発明の技術的範囲に属しないとしてこれを棄却しました。
これに対し,控訴審判決は,専用実施権を設定した特許権者も差止請求権を有するとしたうえで,被告方法は本件特許発明の技術的範囲に属するとし,原判決を取り消して原告らの請求を認容しました。このように,本件は第一審判決と控訴審判決とで正反対の判断がなされた,大変興味深い事例です。 |
第2.本件特許発明の内容 |
1.特許請求の範囲(請求項1)の記載
本件特許発明は「生体高分子−リガンド分子の安定複合体構造の探索方法」に関するものであり(特許第2621842号),その特許請求の範囲の記載(請求項1)は次のとおりです。 『(1)生体高分子中の水素結合性官能基の水素結合の相手となりうるヘテロ原子の位置に設定したダミー原子とリガンド分子中の水素結合性ヘテロ原子との対応づけを組合せ的に網羅することにより,生体高分子−リガンド分子間の水素結合様式を網羅する第1工程, (2)前記のダミー原子間の距離と前記の水素結合性ヘテロ原子間の距離を比較することにより,生体高分子−リガンド分子間の水素結合様式及びリガンド分子の水素結合性部分の配座を同時に推定する第2工程,及び (3)第2工程で得られた水素結合様式と配座毎に,リガンド分子中の水素結合性ヘテロ原子とダミー原子との対応関係に基づいてリガンド分子の全原子の座標を生体高分子の座標系に置き換えることにより生体高分子−リガンド分子の複合体構造を得る第3工程 を含む生体高分子−リガンド分子の安定複合体の構造を探索する方法。』 2.本件特許発明の概要 本件特許発明は,生体高分子(蛋白質等の生体に見いだされる高分子)に安定して結合する低分子量の化合物分子(薬物分子,酵素の基質,阻害剤等)であるリガンド分子を探索する方法です。本件特許発明は,生体高分子に対するリガンド分子の結合様式とリガンド分子の活性配座を同時に探索することを目的としたものであり,医薬,農薬等の構造設計に利用できるものです。本件特許発明の内容は非常に難解ですが,本件特許発明の方法により生体高分子とリガンド分子の安定複合体構造を得る過程の概略を説明すると次のとおりです。 《1》生体高分子の任意の部分(リガンド結合ポケット等)を含む領域を,目的に応じて,リガンド結合領域として指定する。 《2》リガンド結合領域に存在する水素結合性官能基(水素結合に関与すると考えられる官能基及び原子を含む概念)であって,リガンド分子と水素結合を形成することが予想されるもののそれぞれに対して「ダミー原子」を設定する。 《4》「ダミー原子」の原子間距離と,対応するリガンド分子中の各水素結合性ヘテロ原子の原子間距離とを比較する。すなわち,下図において,生体高分子側の「ダミー原子」により構成される三角形と,リガンド分子側の水素結合性ヘテロ原子により構成される三角形(リガンド分子の配座ごとに形状が異なりうる)とがほぼ合同であるかを判定する。 《5》ほぼ合同であると判定された場合には,リガンド分子の水素結合性ヘテロ原子の座標と,対応するダミー原子の座標とが一致するように,リガンド分子の原子座標を生体高分子の座標系に置き換える。 3.被告方法の概要 本件では,被告方法における「生体高分子側作用点」が本件特許発明の重要な構成要素である「ダミー原子」に該当するか否かが主要な争点となりました。これに関連する部分について被告方法の概略を述べると次のとおりです。 《1》生体高分子中の相互作用可能なそれぞれの原子について,数十の点により近似的に表現される相互作用面を設定する。 《2》相互作用面を構成する前記各数十の点(生体高分子側作用点)すべてを含む2点の組み合わせについてその2点間の距離を計算し,表(ハッシュ表)を作成する。 《3》ベースフラグメント(リガンド分子中の水素結合に関与する原子をより多く含む部分)中の相互作用可能な3つの原子について,ハッシュ表を利用して等しい原子間距離を持つ生体高分子側作用点を探索する。すなわち,生体高分子側作用点により構成される三角形と,ベースフラグメント中の相互作用可能な3つの原子により構成される三角形とがほぼ合同であるかどうかを判定する。 |
第3.裁判所の判断 |
本件の争点は多岐にわたりますが,以下では,第一審判決と控訴審判決とで判断が分かれた部分についての判旨を紹介します。
1.専用実施権を設定した特許権者の差止請求権の有無 (1) 第一審判決 第一審判決は,以下の理由により専用実施権を設定した特許権者の差止請求を否定しました。 《1》特許法77条2項及び同法68条の規定によれば,特許権者は特許発明の実施権を専有するが,専用実施権者が特許発明の実施権を専有する範囲においてはこの限りではないとされている。 《2》差止請求権は特許発明を独占的に実施する権利を全うさせるために認められたものであるから,専用実施権を設定して特許発明の実施権を有しない場合には,特許権者といえども差止請求権を行使することはできない。 《3》この場合に特許権者に差止請求権の行使を認めるべき実益もない。 (2) 控訴審判決 これに対し,控訴審判決は,以下の理由により専用実施権を設定した特許権者の差止請求を認めました。 《1》特許法100条の規定上,差止請求権の主体は「特許権者又は専用実施権者」とされている。 《2》専用実施権を設定した特許権者がその実施料を専用実施権者の売り上げを基準として得ている場合には,自ら侵害行為を排除して専用実施権者の売り上げの減少に伴う実施料の減少を防ぐ必要がある等,専用実施権を設定した特許権者にも差止請求権を行使する必要が生じ得る。 2.「ダミー原子」の解釈 (1) 第一審判決 第一審判決は,以下の理由により,「ダミー原子」の意義を,本件明細書の最良実施例に記載された「水素結合性領域内でかつ,ファンデルワールス半径外に,適当な数,例えば5〜20個の三次元格子点が存在する水素結合性領域を構成する三次元格子点の中心(すなわち1点)に設定される便宜上の原子」に限定して解釈し,被告方法における「生体高分子側相互作用点」(生体高分子中の相互作用可能な原子につきそれぞれ設定される相互作用面を構成する各数十の点)は,本件特許発明の各構成要件の「ダミー原子」に該当しないと判示しました。 《1》蛋白質の水素結合の相手となり得る概念上のヘテロ原子位置に対して「ダミー原子」という用語をあてたのは本件特許発明が最初であるから,「ダミー原子」という概念は本件特許発明の出願前には知られていなかった。したがって「ダミー原子」の意義は「特許請求の範囲」の記載からは明らかでなく,本件明細書の「発明の詳細な説明」の記載等を参酌して解釈せざるを得ない。 《2》本件明細書には,「三次元格子点が存在する水素結合性領域を構成する三次元格子点の中心にダミー原子を配置する」という記載がある一方で,本件明細書及び図面には1個の水素結合性領域に数十のダミー原子を設定し得ると解し得るような記載や,そのような場合の設定方法に関する記載が一切存在しない。 《3》「ダミー原子」を,どのようにして,どこにいくつ設定するかをあらかじめ決めておかなければ,「ダミー原子」を設定するに際して,「作業者の先入観が入り易く,客観的に膨大な可能性の中から正しい解に到達することが極めて難しい上に,時間と労力がかかる。」という従来技術の問題点を解決できない。 《4》1個の水素結合性領域について「ダミー原子」を数十も設定するようなことをすれば,演算処理の時間が長時間かかることになり,処理が複雑になって所期の目的や効果が達成されなくなるおそれがある。 (2) 控訴審判決 控訴審判決は,以下の理由により,本件特許発明の「ダミー原子」は,「生体高分子中の水素結合性官能基の水素結合の相手となり得るヘテロ原子の位置に設定した」架空の原子であれば足り,生体高分子の水素結合性領域の中心に1個だけ配置されたものも,複数の個数配置されたものもこれに含まれ,被告方法における「生体高分子側相互作用点」は「ダミー原子」に該当すると判断しました。 《1》特許請求の範囲に同発明における「ダミー原子」が何であるかを述べるものとして記載されているのは,「生体高分子中の水素結合性官能基の水素結合の相手となり得るヘテロ原子の位置に設定したダミー原子」だけである。 《2》「ダミー原子」がその位置に存在すると仮定した架空の原子という意味の用語であることは,当業者にとって自明の事項である。 《3》第一審判決が指摘した前記《2》の本件明細書の記載は,最良実施例についての説明にすぎないが,本件特許発明の「ダミー原子」を最良実施例の構成のものに限定して解釈すべき根拠は,全証拠を検討しても見いだすことができない。 《4》本件明細書の最良実施例において,水素結合性領域における「ダミー原子」の数を1個から複数個に変えた場合を仮定してみても,計算時間が膨大なものとなり,実用的なものではなくなることを認め得る証拠はない。 |
第4.検討 |
1.専用実施権を設定した特許権者の差止請求権の有無
従来の通説は,所有権に基づく妨害排除請求権が制限物権設定後においても認められるのと同様に,専用実施権を設定した後はその限りにおいて特許権者の実施は制限されるが,差止請求権の行使は妨げられないと解していました(山口地判S38.2.28下民14・2・331,東京地判S39.3.18判時377・63)。第一審判決は上記通説とは異なる立場に立ったものであり,その根拠は前記のとおりです。しかし,専用実施権者との関係で特許権者が特許発明の実施ができないからといって,直ちに,第三者に対する関係でも差止請求権の保護を受けられないとすることはいささか短絡的ではないでしょうか。控訴審判決の理由付けに示されているように,特許権者も専用実施権者による特許発明の独占的実施に利害を有していますし,専用実施権を設定した特許権者も,「専用実施権者を通じて特許発明を独占的に実施する権利」を全うする利益を有するともいえます。したがって,専用実施権を設定した特許権者が差止請求権の保護を受けられないとする理由はないと考えます。 2.「ダミー原子」の解釈 第一審判決においては『蛋白質の水素結合の相手となり得る概念上のヘテロ原子位置に対して,「ダミー原子」という用語をあてたのは本件特許発明が最初であることが認められ』ると判示されています。そうすると,「ダミー原子」とは『蛋白質の水素結合の相手となり得る概念上のヘテロ原子位置』に設定した架空の原子(控訴審判決のいう「生体高分子中の水素結合性官能基の水素結合の相手となり得るヘテロ原子の位置に設定した架空の原子」と同義です。)の意味に他ならず,「ダミー原子」の意義が「特許請求の範囲」の記載からは明らかでないということにはならないのではないでしょうか。そして,「ダミー原子」の意義を以上のようなものと理解したうえで,「ダミー原子」の位置や個数が実施例に限定されるかどうかを明細書の記載等を参酌して判断するのが自然な考え方と思われます。第一審判決は,「ダミー原子」の意義の問題と「ダミー原子」の位置や個数の問題とを混同しており,「ダミー原子」の位置や個数を実施例に限定する論理には飛躍があるものと思われます。 |