発明 Vol.99 2002-4
知的所有権判例ニュース
実用新案権侵害に基づく損害賠償請求事件
「東京地裁判決,平成11年(ワ)第25757号」
生田哲郎 山崎理恵子
1.事件の概要
 葉書の表面に印字された個人のプライバシー情報を隠すために,粘着目隠しシールを貼り付けた葉書をよく見られると思います。本事件は,被告(国)の機関である社会保険庁が,各種年金の支払通知書等の葉書の表面に年金額等の文字を隠蔽する目隠し用のシールを使用していることが実用新案権の侵害になるとして争われたケースです。原告の主張によると,この目隠しシールは葉書の文字隠蔽用複層化アタッチメントの考案に係る実用新案権を侵害するものであり,原告は当該考案の実用新案権者から補償金請求権及び損害賠償請求権を譲り受けたとして,合計186億円の請求の一部請求として2億6779万円及びこれに対する遅延損害金の支払いを求めたものです。被告は,平成元年10月から,年金受給者等に対して支払通知書等貼付用シール(以下,「本件シール」といいます)を貼付して支払通知書等を発送していました。本訴訟において,本件シールを製造し,社会保険庁に納入している業者5社が被告に補助参加しています。
 
2.事件の争点
  本件の最大の争点は,「本件考案には無効理由が存在することが明らかであり,本件実用新案権に基づく原告の補償金及び損害賠償の請求は権利の濫用に当り許されないか」という点でした。

3.裁判所の判断
 裁判所は,公知技術を組み合わせて本件考案の葉書の文面隠蔽用複層化アタッチメントを考案することは当業者にとって極めて容易であると認められるとして,本件考案には,改正前実用新案法3条2項の規定に違反して実用新案登録がされたという同法37条1項1号所定の明らかな無効理由があると認定しました。そのうえで,裁判所は,本件実用新案権に基づく原告の補償金請求及び損害賠償請求は,権利の濫用に当たり許されないというべきであるとして,「したがって,本訴請求は,その余の点について判断するまでもなく,理由がない」として,原告の請求を棄却しました。このように,裁判所は,本件シールが本件考案の技術的範囲に包含されるか否かという侵害論については一切の判断を行っていません。

4.考察
 キルビー特許債務不存在確認請求事件において,最高裁(平成12年4月11日 第三小法廷判決 H10(オ)第364号判決)は,特許権に基づく差止め,損害賠償等の請求は,当該特許に無効理由が存在することが明らかであるときは,特段の事情がない限り,権利の濫用に当たり許されないと判示しました。この最高裁判決が下される以前にも,特許権侵害訴訟において,特許発明の全部が公知である場合又は公知技術の寄せ集めであって進歩性を欠く場合,技術的範囲をどのように確定するか理論構成はいろいろ考えられてきました。前記の最高裁判決により,特許権に基づく差止め,損害賠償等の請求は,当該特許に無効理由が存在することが明らかであるときに,権利濫用により請求を排斥することが明らかにされました。特許の無効理由としては,特許法第29条1項(新規性),第29条2項(進歩性)の欠如のほかに,第29条の2,第39条(先願),第17条の2第3項(新規事項の追加),第36条4項又は6項,冒認出願,条約違反などさまざまなものがあります。前記最高裁判決は,新規性,進歩性の欠如,先願違反以外の無効理由について,裁判所が判断するか否かについては判示していません。しかし,裁判所の傾向としては,他の無効原因でもそれが明白な場合には権利濫用として原告の請求を排斥しており,前記最高裁判決が下された後の平成13年1月30日東京地方裁判所判決では,冒認出願について判断しています。
  本件においては,本件実用新案権の実用新案登録に対して,訴外会社から無効審判の請求(平成10年審判第35625号)がなされ,特許庁は,平成12年1月5日,「本件審判の請求は,成り立たない。」旨の審決をしました。この審決に対して,訴外会社は本訴の原告を被告として東京高等裁判所に審決取消訴訟(平成12年(行ケ)第89号)を提起したところ,同裁判所は,平成13年8月27日,「特許庁が平成10年審判第35625号事件について平成12年1月5日にした審決を取り消す。」との判決をしました。この取消判決の判決書には,本件考案が引用例記載の各考案から当業者が極めて容易に考案することができたものではないとする審決の判断は誤りというべきであると記載があります。前記の内容の本件取消判決に対して,原告は,最高裁判所に上告の申立て及び上告受理の申立てをしています。
  本件の侵害裁判所である東京地方裁判所は,前記取消判決を引用しつつ,かつ,「当裁判所もまた,本件取消判決と同様の理由から,本件考案はその登録出願前に頒布された刊行物に記載された考案に基づいて当業者が極めて容易に考案をすることができたものであり,明らかな無効理由があるものと解する。」と判断しています。



  本件は,侵害裁判所である東京地方裁判所による特許の無効判断がなされる以前に,東京高等裁判所による取消判決がなされた事案ですが,理論的には,取消判決がなされた後といえども,侵害裁判所は独自の判断により,無効理由の明白性がなく,侵害と判断することも可能でしょう。
  昨今の新聞報道によりますと,経済産業省は,特許侵害訴訟をすみやかに処理する方策として,特許の無効性を裁判所が判断できるようにする等の事項を含んだ特許法の改正法案を来年の通常国会に提出する方針といわれています。ご紹介した最高裁判所の平成12年4月11日判決により,特許侵害訴訟において侵害裁判所の果たすべき役割が一層大きくなりましたが,これが立法化されると,特許侵害をめぐる民事訴訟の審理期間がより短くなることが期待されます。
  なお,権利濫用の理論は,特許権や実用新案権のみならず商標権及び意匠権についても適用され,実際,最高裁判決以後,明白な商標登録無効事由があることを理由に権利濫用を認めた判例(東京地判平13.2.15)があります。


いくた てつお 1972年東京工業大学理工学部大学院修士課程を修了し,直ちにメーカーに技術者として入社。82年弁護士・弁理士登録後,もっぱら,国内外の侵害訴訟,ライセンス契約,特許・商標出願,異議等の知的財産権法実務に従事。この間,米国の法律事務所に勤務。

やまさき りえこ 1996年大阪大学法学部卒業,95年司法試験合格後,98年4月,弁護士登録。主として国内外の知的財産権法分野の訴訟,契約,その他,特許庁に対する出願等の手続きを多く手がけている。