知的所有権判例ニュース |
先使用権発生の条件 |
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神谷 巖 |
1.事件の概要 |
原告Xは,ある化学物質の製造方法について,2件の特許権を有していました(発明の名称「芳香族カーボネート類の連続的製造法」と「ジアリールカーボネートの連続的製造方法」。以下この発明を,本特許発明といいます)。被告Yは,この化学物質を製造し,販売していました。原告Xは被告Yに対して,製造販売の停止と約18億円の損害賠償を求めて,東京地方裁判所に提訴しました。もちろんその訴状には,被告Yが上記化学物質を製造している,と原告Xが信じる製造方法が記載されていました。被告Yはこれに対して,自らが製造している方法を開示しましたが,原告Xが主張する方法と被告Yが製造する方法のいずれにせよ,原告Xが有する特許発明の技術的範囲に属することは,争いませんでした。その代わりに被告Yは,先使用権が存することを主張しました。
被告Yの主張を要約すると,次の通りです。訴外イタリア法人Aは,遅くも本特許発明の優先権主張日である平成元年12月28日より以前である昭和60年末頃には,原告Xの発明の内容を知ることなく,独立に,本特許発明の技術的範囲に属する発明をした(以下,先発明という)。そして訴外Aは,技術提携先である日本法人訴外Bに,先発明の技術情報を提供した。同じ頃,訴外Bは米国法人訴外Cとも技術提携関係にあり,結局先発明に関する技術情報は,訴外Cの関係会社である被告Y(平成元年1月創立)に提供された。被告Yの事業についての最終的な決定権は訴外Cにあり,訴外Bは訴外Cに対して助言・提案をする立場にあった。訴外A,B,Cは,平成元年6月26日訴外Cが訴外Aから先発明についてのライセンスを取得し,被告Yがそれを実施するという内容で基本的に合意し,覚書が作成された。被告Yは,平成元年6月29日先発明を実施する予定のプラントの基本設計,建設費用の見積もりを行うための契約を訴外Dと締結し,その契約に基づいて訴外Dに対し平成元年11月30日までのエンジニアリング作業費用として,合計1憶1000万円を支払った。平成元年7月1日付けで,訴外Bから告Yに,プラント建設の専門家が派遣された。被告Yは,平成元年7月6日訴外Aとの間で,秘密保持契約を締結した。訴外Cは,平成元年9月27日訴外Aとの間で,訴外Aがプラントの建設に必要な技術文書と基本技術設計,イタリアで訴外Aが建設した工場で使用されている技術をそれぞれ提供することなどを内容とする「技術援助及び実施許諾契約」を締結し,その対価として訴外Aに対し300万ドルを支払った。被告Yと訴外Cは,訴外Aの詳細な技術情報をプラントの設計,建設及び操業に利用するため,訴外Aと訴外Cとの間の契約の「拡張契約」(訴外Cが訴外Aとの契約に基づいて訴外Cに付与された権利及びライセンスの利益を被告Yに拡張すること,その対価として被告Yが訴外Cに300万ドルを支払うことなどを内容とするもの)を締結することを決め,平成元年10月27日外為法上の届け出を行い,12月11日この拡張契約を締結し,この拡張契約に基づいて訴外Cに対し,12月27日300万ドルを支払った。以上の事実関係によれば,被告Yは,遅くとも訴外Cと上記拡張契約を締結した段階で,即時実施の意図を有しており,この契約に基づく300万ドルの送金などと合わせて,その意図客観的に認識される態様,程度において表明されたものというべきである。 これに対して原告Xは,次のように争いました。被告の取締役会の決議が優先権主張日までになされなかったが,企業としての意思決定(正式機関による決定)がなされて初めて企業としての「即時実施の意図」が存するものであり,本件では,それがなされたのは平成2年の秋になってからであった。また即時実施の意図が客観的に認識される態様,程度において表明されているというためには,事業設備を有するに相当する状態が必要であるというべきであって,本件においては,被告Yと訴外Dの間で工場建設に係る本契約を現に締結することが必要であるが,それがなされたのは平成3年になってからであった。 本件では,そのほかにも争点がありましたが,判決は先使用権の有無に焦点を当てているので,ここでは割愛します。 |
2.裁判所の判断 |
東京地方裁判所は,平成12年4月27日に判決を言い渡し,被告Yの先使用権を認めました。その要部は次の通りです。
特許法第79条にいう発明の実施である「事業の準備」とは,特許出願に係る発明の内容を知らないでこれと同じ発明をした者又はこの者から知得した者が,その発明につき,未だ事業の実施の段階には至らないものの,即時実施の意図を有しており,かつその即時実施の意図が客観的に認識される程度,態様において表明されていることを意味すると解するのが相当である(最高裁判所昭和61年10月3日判決)。上記の事実関係の下では,平成元年12月28日の時点において,既にプラントにおいて先発明を含む技術を即時実施する意図を有していたというべきであり,かつ,その即時実施の意図は,遅くとも被告Yが訴外Cとの間で,訴外Cと訴外Aとの間の実施許諾契約を被告に拡張する旨の契約を締結し,訴外Cに対しその対価として300万ドルを支払った時点において,客観的に認識される態様,程度において表明されているものというべきである。なお企業の意思決定は,取締役会で正式になされたものではなくとも,実質的に意思決定がなされていればよい。 |
3.検討 |
本件では,わずか1日の差で先使用権が認定され,しかも即時実施の意図が客観的に表明していたことが辛うじて認められた限界事例に位置するものです。なお最高裁判所の判決が引用されていますが,この事件の原審では,先使用権を有すると主張する原告の主張に対し,次のように述べてこの主張を認めました。「原告は,見積仕様書等を提出したものの,いまだ注文を受けていなかったため,最終製作図は作成されていなかったが,受注すれば注文者と細部の打合せを行い,最終製作図を製作可能な段階まで準備したのであり,・・・・・・加熱炉が大量生産品ではなく,個別的注文を得て初めて生産にとりかかるものであり,・・・・・・単なる試作・研究の域を越えて,現実にその準備に着手したものというべきである」。先使用権を主張する側が先に発明していることを考えると,どうしても先発明者に有利に考えたくなるのですが,致し方ないでしょう。
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