発明 Vol.96 1999-9
知的所有権判例ニュース
先願明細書には有用性の記載が必要か
(東京地方裁判所平成10年8月29日判決)
神谷 巖
1 事件の概要
 原告Xは,発明の名称を「新規なジアゾジスルホン化合物」とする,R1基,R2基という基を含む化合物の発明について,特許されました。しかしこの特許に対して第三者から,本件発明は先願明細書に記載された先願発明と同一発明である,との理由に基づく異議の申立があり,被告特許庁はその主張を認めて,特許を取り消す旨の決定をしました。Xは取消決定取消請求訴訟を提起しましたが,東京高等裁判所は平成11年3月2日に,原告の請求を棄却する旨の判決をしました。
 
2 争点
 本件訴訟においてXが取消事由として主張したのは,先願明細書に記載された化合物(以下引用化合物といいます)の製造方法及び有用性が先願明細書に記載されていない,という点です。この点についての原告Xの主張は,次の通りです。
 「本件発明について特許法第29条の2の規定(拡大された範囲の先願の規定)を適用するためには,先願明細書に,本件発明の化合物に相当する化合物が化学物質名で記載されているのみでは足りず,発明として成立する程度に,製造方法及び有用性が特定して記載されているか,製造方法及び有用性が記載されている実施例に近似しているため記載されているに等しい,と認められなければならない。」
 「先願明細書において,製造方法あるいは有用性が確認されている実施例の化合物中の上記2つのR基は,芳香族のアリール基であるのに対して,引用化合物のR基は,脂肪族のアルキル基又はシクロアルキル基であって,その間に近似性はない。」
 「先願明細書には,引用化合物について,それらの製造方法及びこれらの化合物のみが示す有用性は特に記載されていない。」
 「したがって,先願明細書に,引用化合物が,発明として成立する程度に記載されているということは到底できない。」
 これに対する被告特許庁長官の主張は,次の通りです。
 「先願明細書に,ある化合物が正確な化合物質名(あるいは,化学構造式)をもって記載されているならば,同明細書記載の発明の特許出願当時の技術水準において,当該化合物は存在しえない,あるいは,当該化合物は製造できないと考えられていたような特別の事情がない限り,当該化合物は発明として成立する程度に特定して記載されていると解するのが当然である。のみならず,当業者ならば,先願明細書の記載によって,引用化合物の製造方法及び有用性を明確に理解できるのであるから,原告の主張は失当である。」
 「先願明細書記載の一般式は本件発明の特許出願前に周知のものであって,刊行物においても,R基がアルキル基である化合物とR基がアリール基である化合物とが全く同列に扱われている。・・・・・・したがって,先願明細書において,R基がアリール基である化合物の製造方法及び有用性が確認されている以上,R基がアルキル基である化合物の製造方法及び有用性も確認されているに等しいと解すべきことは当然である。」

3 裁判所の判断
 「化合物に係る発明は,新たな化学物質の創案を本質とするものであるから,発明として成立するためには,少なくともその化学物質名(あるいは化学構造式)及びその製造方法が特定される必要があると解される。したがって,本件発明について特許法29条の2の規定を適用するためには,先願明細書に,本件発明の化合物に相当する化合物の化学物質名(あるいは化学構造式)及びその製造方法が記載されていなければならない。
 しかしながら,特許法29条の2の規を適用するためには,先願明細書記載の発明(以下「先願発明」という)が特許を受ける必要はなく,出願公開されれば足りるのであるから,先願発明について同法29条1項柱書の要件(原告のいう有用性)は必要でないと解すべきである。」
 「先願発明の特許出願当時,先願明細書記載の一般式によって特定される化合物は,R基がアルキル基であるものも,R基がアリール基であるものも,全く同等に扱われていることが明らかである・・・・・・。
 そうすると,先願明細書の・・・・・・記載に接した当業者は,R基がアリール基である実施例と同様に,R基がいずれもアルキル基である引用化合物の製造が可能であると認識するのが当然というべきである。」

4 検討
 本判決は,特許法第29条の2の拡大された先願の範囲の規定を適用するに当たっては,先願明細書に有用性の記載があることまでは要しない,として原告の請求を棄却したものです。しかし一般的に,「発明は有用なものでなければならないから,新しい物(例えば新規化合物)を創作したとしても,何の役にたつか(用途)が不明である限り,その創作物は,発明として未完成である」(有斐閣発行,吉藤幸朔著,熊谷健一補訂,特許法概説第12版,第57頁)とされています。ここで,「用途」には,発明の構成から当然に当業者が理解できる用途もありますし,当然には理解できない用途もあります。前者の場合は,先願明細書には記載がなくとも,当然にその用途(有用性)を補充して読むべきでしょう。しかし後者の場合は,先願明細書に有用性の記載がなければ,後願を排除する理由になりえないのではないでしょうか。この点に関して,本判決は,次のように述べています。
 「例えば,先願発明と,後にされた特許出願に係る発明(以下「後願発明」という)が全く同一の構成のものであるが,先願明細書において、先願明細書には先願発明の有用性についての記載が存在しない場合において,先願明細書には発明の記載はないとし,後願発明は,同法29条の2の規定にいう後願発明には当たらないとして特許を受けることができるとすることは,およそ不合理である」
 しかしこの判示には,賛成できません。先願明細書に先願発明の有用性が記載してなくても,特許法第29条の2の規定にいう「先願発明足りうるか否か」が問題とされているのであり,問に対して問で応えたという感じがします。特に,上に述べたように,構成だけからは有用性又は効果が当然に知りうるものでない場合には,やはりそれについての記載がなければ,先願「発明」には当たらないのではないか,という疑問がどうしても残ります。
 なお,この有用性に関連して,本判決は次のように述べています。
 「なお,後願発明が先願発明の下位概念の関係に立ち,選択発明が成立する場合には,選択発明に係る技術的事項は,先願発明の明細書に記載されていないことになり,また,後願発明が新たな用途の発見に基づくものであって,用途発明が成立する場合には,両者は技術的思想を異にし,後願発明は先願明細書に記載されていないこととなると解されるが,本件についての後記認定判断によれば,本件は後願発明が選択発明として成立する場合には当たらず,また,後願発明が用途発明であることについての主張立証はない。」
 この点は,判示に賛成できます。しかしこのことは,有用性(例えば用途)が先願発明の構成からは容易に理解できない場合があることを前提としています。するとやはり上述の疑問は消えません。
 一般に発明は,目的,構成,効果によって特定されます。したがってこれらの3点は,明細書に記載されるべきものです。但し,「効果」については,特に明細書に明文をもって記載されてはいなくても,当業者がその構成から当然に理解できる効果であるとするば,そのような効果を奏しない技術とは異なる,とされていることからも,本判決は,何故有用性についての記載が先願明細書に記載がなくても,特許法第29条の2にいう先願「発明」に当たるのか,より一層理解しやすく述べて欲しかった,と思います。なお,判例の中には,「右発明(後願発明を指す)が・・・・・・を利用することによって,先願の・・・・・・に比較して格別の作用効果を奏するものである場合,両者を同一のものと判断した審決は違法であって取消を免れない」とするものがあります。やはりこの判例も,先願発明からは容易に理解できない効果を後願発明が奏する場合は,両発明は同一ではない,とするものと理解できます。すると本判決は,やや舌足らずの感がします。


かみや いわお 1965年東京工業大学理工学部を卒業,67年同大学院修士課程を修了し,直ちにソニ−株式会社に研究者として入社。78年同社を退職し,同年司法試験に合格する。81年弁護士登録をし,主に知的財産権関係の事件を扱う。