知的所有権判例ニュース |
相互侵害 |
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〔東京高等裁判所平成8年7月18日付判決〕 |
神谷 巖 |
1 事件の内容 |
原告Xは,名称を「鞄等の磁石錠」とする考案について,実用新案権を有していました。名称からも分かるように,鞄の錠を永久磁石と吸着用の鉄片とを用いて構成するものです。一方,被告Yは,永久磁石と鉄片とで錠の作用をなす鞄を製造・販売していました。Xは,Yらに対して,実用新案権侵害による損害賠償請求訴訟を提起しました。第一審の東京地方裁判所は,被告が主張した先使用による通常実施権の抗弁などを斥け,平成2年3月12日,Yに対する請求を認める判決を下しました。なお,販売元については,共同不法行為の事実は認められない,として,請求は棄却されました。
Yは東京高等裁判所に控訴し,権利侵害の事実を争ったほか,更に相殺の抗弁を主張しました。即ち,Yは「靴,ランドセルにおける蓋等の係止装置」なる名称を有する考案について実用新案権を有していたが,Xが販売する鞄はこの実用新案権を侵害するものであり,よってYも損害を被ったので,損害賠償請求権を有し,この債権により,Xの債権と対当額において相殺する旨を主張したのです。 |
2 争点 |
民法第509条には,「債務が不法行為に因りて生じたるときは,その債務者は相殺を以て債権者に対抗することを得ず」と規定しています。これについてYは,Xの損害賠償請求権とYの損害賠償請求権とは,共に鞄の係止装置を製造販売したという同一の事実から生じたものであり,このような場合には同条の適用がない,と主張したのです。東京高等裁判所は,平成7年12月21日の判決で,「仮に,同一の事実から生じた双方的不法行為による損害賠償請求権については,互いに相殺を認めるべきであるとする考え方があるとしても,控訴人の控訴人製品の製造販売と,被控訴人の被控訴人製品の製造販売とが同一の事実関係にないことは明らかであって,控訴人の右主張は理由がない。」と述べて,相殺の抗弁を排斥しました。そこでYは最高裁判所に上告し,次のように上告理由を述べました。「民法509条により,不法行為による債権の相殺を禁止したのは,これを許すことが正義に合致せず,もし相殺を許すときは不法行為を認容する結果となるからとされる。かかる弊害のない場合には,相殺を認めて然るべきである。・・・・・・被上告人の考案のみをもってしては,鞄等の磁石錠とはならず,上告人の考案にかかる係止装置を用いて始めて鞄等の磁石錠として完成するものである。・・・・・・上告人及び被上告人双方の製品は,いずれも,互いに有する実用新案権を侵害するものである。・・・・・・原審は,この事実を看過し,上告人の上告人製品の製造販売と,被上告人の被上告人製品の製造販売が同一事実にないと判断した。」
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3 判決 |
平成8年6月17日の判決において,最高裁判所は,「所論の点に関する原審の判断は,正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は,独自の見解に立って原判決を論難するものに過ぎず,採用することができない。」として,上告を棄却しました。
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4 検討 |
相互に相手の権利を侵害することがあり得ます。その場合に,差止請求権が認められるか,損害賠償請求訴訟において相殺の主張をすることができるか,という問題が発生します。今回の判決は,相殺することができないとしたものです。
さて相殺とは,互いに同種の債権を有する場合,これを対当額において帳消しにしようというものです。お互いに金銭を支払い合うことは手間がかかることであり,また両者共に,自ら支払えば相手からも払ってもらえるという,期待を持っていることに鑑みた制度です。しかるに民法第509条は,上記のとおり,自らの債務が不法行為によって発生したものである場合は,相殺することができない,と規定しています。 この規定の趣旨については,幾つかの学説がありますが,一番説得力があるのは,もしこのような相殺を許すと,自力救済などの不法行為を誘発する危険性があるからだ,とするものです。例えば,自己が債権を有するのに,債務者が支払ってくれない場合に,本来は支払請求訴訟を提起して,勝訴判決により強制執行をするというのが,法が予定している権利行使法です。しかし,このように時間と費用がかかることを嫌う者が,例えば勝手に債務者の者を盗んでしまうことがあり得ます。そして債務者から,窃盗により被った損害の賠償を求められたときに,自己の債権と相殺する,ということになり,法治国家として成り立たなくなります。 しかし仮に1つの行為,例えば両当事者の相互の不注意で交通事故が発生し,お互いに損害賠償請求権を有する,といった場合には,別に新たな不法行為を惹起するという心配はありません。そこで,昭和43年3月30日の東京地方裁判所判決は,このような場合には相殺を許す,と判示しています。ただし,未だ最高裁判所の判例は出ていません。 本件において,Xはこの判例に頼って,同一の行為から生じた不法行為に基づく損害賠償請求権については,相殺が許されるべきだ,と主張したのです。最高裁判所はこれを斥けたのですが,その趣旨は次のようなものであると考えられます。本件では,お互いが相手の権利を侵害したというだけであって,自分が相手の権利侵害品を製造・販売することと,相手が自分の権利侵害品を製造・販売することとは,別の行為である。もしこのような場合に相殺を許すとすれば,相手方の権利侵害行為に対して,本来は損害賠償請求訴訟を提起するべきであるが,まどろっこしいので,自分も相手の権利を侵害してやれ,といった具合に,不法行為を誘発する危険性が認められるのです。 昭和35年8月16日の東京地方裁判所の判決では,相互に利用関係をもつ2個の特許発明間において,一方が他方に対して,自己が得るはずであった利益の喪失としてその賠償を求めることは,自分自身も同様の立場におかれているわけであるから,違法行為と損害との間に因果関係はなく,その賠償を求めることはできない,と判示しています。この判決は,本件判決と趣旨が逆のように読めますが,一つ違いがあります。即ち,昭和35年の判決では,相互に利用関係があり,一方の発明を実施しようとすると,必然的に他方の特許権を侵害してしまうという関係にあります。従って,お互いに自己の発明を相手から許諾を得ずに実施することはできず,得べかりし利益なるものを考えることができません。よって今回の最高裁判所の判決によって,昭和35年の判例が否定されたとまでは,今のところ断言できません。 |