知的所有権判例ニュース |
進歩性の低い考案とその技術的範囲 |
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神谷 巌 |
1 事件の内容 |
原告は,「コア採取器具」という名称の考案について実用新案権(登録第1,862,749号)の権利者です。このコア採取器具とは,土地等をボーリングする際に,岩石等を円柱状に切削し,そのコア部分を採取する器具です。被告が,ダブルチューブ式のコア採取器具を製造,販売したので,原告はその製造,販売の差止めと損害賠償を請求して,平成5年5月に,福岡地方裁判所に訴訟を提起しました。裁判所は,平成8年2月27日に判決を下しましたが,差止請求は認められたものの,損害賠償請求については棄却されました。この訴訟で被告は,次のように争いました。なおこの訴訟は,実用新案権に関するものですが,特許法と同一の議論になるので,特許法に沿って議論することとします。
《1》 本件考案は,その大部分の要素が出願前公知であったので,実施例に限定して最も厳格に解釈されるべきであり(限定解釈の抗弁),イ号物件は本件考案の技術範囲には属しない。 《2》 本件考案の要旨は,8つの構成要件に分解できるが,イ号物件は,そのうちの4番目の構成要件以外の構成要件を充足しておらず,それ故,作用効果が異なる。 《3》 イ号物件は,公的技術から当業者が極めて容易に推考することができる技術である(自由技術の抗弁)から,本件考案の技術範囲には属しない。 |
2 裁判所の判断 |
《1》 被告も,本件考案と公知技術とは幾分異なり,少なくともその部分については新規性があることを認めている。従って,出願前全部公知であったわけではないので,本件考案を実施例に限定して解釈しなければならないとするまでの理由を見いだし難い。
《2》 本件考案の発明の詳細な説明をも考慮に入れて構成要件を評価すると,結局イ号物件も本件考案の構成要件と,同一の機能を達成できるものであり,構成要件を充足している。 《3》 既に検討したことからしても,本件考案は従来技術に比して新規性と若干の進歩性を有するものであることは明らかである。もっとも,審査経過に照らせば,イ号物件についても当業者が極めて容易に推考することができる技術に属する類のものであるという余地が全くないわけではなさそうであるが,なお,その旨断ずるには至らない。 |
3 検討 |
《1》 特許権の侵害訴訟においては,特許発明が出願前から公知であったことが主張され,立証されることがあります。この場合には,無効審判により,特許が無効であることを主張し,権利を遡及的に消滅させることができます。しかし,この無効理由があることを侵害訴訟の抗弁として提出しても,裁判所は特許が無効であると判断することはできないものとされています。特許法が特許庁に無効審判の請求ができるとした趣旨は,専門官庁たる特許庁に第1次的な判断権限を与えたとする考え方からです。しかしながら,全く新規性がなく,出願前に公知であった発明に独占権を与えて,差止めや損害賠償の支払いを命ずることは,いかにも被告に酷です。そこで,実務の場においては,裁判所は特許が無効であることは宣言せずに,特許権は有効であるとしながらも,その権利範囲を極めて狭く解釈し,例えば実施例に限定して解釈する等の方法を採って,被告の救済を図っています。しかし本件では,被告も本件考案が公知技術と少なくとも一点において異なることを認めているのですから,裁判所がこの被告が主張する限定解釈の抗弁を退けたのは,当然です。
《2》 イ号物件が問題の発明の作用効果を果たさなければ,それは特許権を侵害するものとはいえません。この趣旨の判例も多くあります。発明特有の作用効果を果たさないとすれば,それは特許発明の思想を利用するものではないのですから,権利範囲に属しないことは当然です。しかるに本件の場合は,被告は,本件考案とイ号物件とでは,作用効果が異なると主張しているだけであって,本件考案の作用効果を果たさないとは主張していません。物が異なる以上,作用効果が異なるのは当然のことであって,そのようなことは主張・立証しても意味がありません。問題は,イ号物件が本件考案の作用効果を果たすか否かなのです。 次に判決は,構成要件の該当性を解釈するに当たって,同一の機能を有するから構成要件を充足すると判示しています。しかし,同一の作用を果たすからといって,同一の構成であるとはいえません。構成は違っても同一の作用を果たす場合は,多々あるからです。問題なのは,その発明で,その特定の構成要件が何を意味するかです。発明の詳細な説明を記載するに当たっては,「技術用語は学術用語を用いる」べきであり,「用語は,その有する普通の意味で使用し,かつ,明細書全体を通じて統一して使用する。ただし,特定の意味で使用する場合において,その意味を定義して使用するときは,この限りではない」(特許法施行規則第24条,様式29,備考7及び8)のです。もちろん,あえて「定義」と改まって書く必要はありませんが,その明細書の中で,特定の機能を有する物をその構成要件で表現していると認められるような記載をしていなければなりません(昭和50年10月9日最高裁判所判決参照)。従って本件判決が,機能のみの比較により構成要件該当性を認めたのは,若干疑問があります。 《3》 本件においては,あえて出願経過にまで踏み込んで検討しましたが,本件考案の進歩性に疑問がないとはいえない事案でした。もし,進歩性がほとんどなかったとした場合,裁判所はどう判断するのでしょうか。この点については,進歩性がない場合もやはり拒絶理由に該当するから,新規性がない場合と同様に,権利範囲を極端に狭く解釈して,被害を救済するという考え方もあります(昭和56年5月18日東京地方裁判所判決等)。しかし判例の大勢は,この場合には新規性がない場合とは違って,権利範囲を狭く解釈するということはしません(昭和58年5月27日大阪地方裁判所判決等)。その理由は,技術の専門官庁である特許庁には進歩性の判断能力があるが,裁判所には進歩性についてまでは判断能力がないとする,抑制的な考え方です。東京地方裁判所や大阪地方裁判所のように特許庁から調査官が派遣されている裁判所は別として,他の裁判所には,本件考案が公知文献に記載されている発明と同一か否かの判断はできるとしても,進歩性の判断までは,やはり無理だということでしょう。したがってこの場合は,被告はいったん差止めなり損害賠償なりの判決に応じた後,特許庁で無効審決を得て,民事訴訟法の定める再審裁判に持ち込まねばならないということになります。被害者にはやや酷な感じがしますが,それは特許庁における無効審判の審理遅延に原因があります。特許制度が有益なものとして機能するためには,特許庁における審理の促進を願うほかにありません。 |