知的所有権判例ニュース |
不正競争防止法により,営業秘密の 不当使用が差し止められた事例 |
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神谷 巌 |
1 事件の内容 |
原告は,男性用かつらの販売を業とする会社で,大阪市や神戸市などに数店の店舗を有しています。被告は,昭和60年から平成5年8月12日まで原告会社の従業員で,心斎橋店の店長等として勤めた者でしたが,退職後大阪市内で男性用かつらの製造・販売業を始めました。そして被告は,原告会社を退職する際,原告の心斎橋店の顧客名簿をコピーし,自己の店の開店後,その顧客名簿に基づいて,200名を超える原告の顧客に,「原告の承諾を得て独立して店が変わったから,こちらの方に散髪に来て下さい」「原告の方への注文はキャンセルしてこちらに注文して下さい」などといった内容の電話をかけ,そのうち約50名の顧客の来店を受けて,理髪,かつらの受注,型取り,取り付け,納品等の業務を行いました。そこで原告は被告を相手取って,この顧客名簿記載の者に対し,面会を求め,電話をし又は郵便物を送付するなどして,男性用かつらの請負もしくは売買契約の締結方の勧誘をしてはならない,損害賠償として1,974,200円を支払え,などの請求を掲げて大阪地方裁判所に提訴しました。これに対して,平成8年4月16日に判決の言い渡しがあり,損害賠償額を減額したほかは,ほぼ原告の請求を認めました。
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2 争点 |
被告は,
《1》上記の顧客名簿が原告の営業秘密であることを争い, 《2》理容業界においては,顧客は職人としての理容師につくという性格があり,被告の店に来ている客は,被告(の技術)についてきた客であって,被告が原告顧客名簿を利用して不当に勧誘したが故に来ている客ではない, などと主張しました。 |
3 裁判所の判断 |
大阪地方裁判所は,次のように判示して,被告の主張をいずれも退けました。
《1》男性用かつらの販売業は,頭髪が薄くなった男性を対象とするものであり,自らがかつらを必要とすることは恥ずかしくて他人に知られたくないと考えるのが通常であるという性質上,例えば路上等公衆の面前で直接頭髪の薄い男性に声をかけて購入の勧誘をしたりすることは困難である。 したがって多額の宣伝広告費用を投下して新聞,テレビ等の各種宣伝媒体を利用せざるを得ない実情にあり,原告顧客名簿も,原告において長年にわたり継続して多額の宣伝広告費用を支出してようやく獲得した顧客が多人数記載され,各顧客の頭髪の状況等も記載されているものであり,これらの顧客からは,将来にわたって定期的な調髪等の外,かつら買替えの需要も見込まれることに照らせば,原告顧客名簿は,原告が同業他社と競争していく上で,多大の財産的価値を有する有用な営業上の情報であることが明らかである。 そして,原告は,原告顧客名簿の表紙にマル秘の印を押捺し,これを原告心斎橋店のカウンター内側の,顧客からは見えない場所に保管していたところ,このような措置は,顧客名簿,それも前記のような男性用かつら販売業における顧客名簿というそれ自体の性質等に鑑み,原告顧客名簿に接する者に対し,これが営業秘密であると認識させるのに十分なものというべきであるから,原告顧客名簿は,秘密として管理されていたということができる。更に,原告顧客名簿に記載された情報の性質,内容からして,原告以外の者に公然と知られていない情報であることは明らかである。 したがって,原告顧客名簿は,不正競争防止法2条4項所定の「営業秘密」に該当するというべきである。 《2》被告主張の事実を認めるに足りる証拠がないのみならず,原告の属する業種は単なる理容業ではなく,男性用かつらの販売業であり,理容(カット等)もかつらの販売に付随して行うにすぎないから,右主張は採用することができず,被告の行為を正当化することはできない。 |
4 検討 |
この「発明」誌の今年6月号にも,営業秘密についての大阪高等裁判所の判例が紹介されていますが,その事件では損害賠償だけが請求されたせいもあって,不正競争防止法ではなく,民法の不正行為の規定を適用しても同一の結論になり,また判決が,「会社役員の営業秘密保持義務は,退任による契約関係の終了後も,信義則上,なお引き続き負う」というふうに述べているので,契約上の債務の不履行責任を認めたともとれます。これに対して本件は,正面から,不正競争防止法第3条第1項,第4条を適用し,営業秘密使用行為の差止めと,損害賠償の請求を認めたものです。今後もこの種の訴訟は多発するものと考えられ,指導的な役割を担うべき判例です。そのことも意識してか,本件では,営業秘密と言えるか否かについて,詳細に述べています。蛇足ながら付け加えると,民法の不法行為の規定によっては,通常,差止請求をすることができません。
営業秘密の保護に関する判例は,以前からありました。そこでは,顧客名簿,新薬製造承認申請用資料,新聞購読者管理システムプログラム等が,法律上保護されるべき営業秘密であるとされてきましたが,それらはいずれも刑事事件であり,コピーを持ち出した行為や,コンピュータプログラムの無断複製行為を,窃盗罪や背任罪に当たるとしたものであって,民事上のものではありません。 むしろ東京高等裁判所昭和41年9月5日決定(判例タイムズ第199号,ワウケシャ事件)においては,「ノウ・ハウは財産的価値のあるものであるが,権利的なものとして第三者にも強制的にこれを認めさせるだけの効力を法律が許容しているとまでは現在のところ,解し得ない」と述べて,ノウ・ハウの無断使用差止の申立てを却下しています。この法的不備に対処するため,平成2年に不正競争防止法が改正され,また平成5年の不正競争防止法の全面改正の際にも,この営業秘密保護の規定が整備されたのです。 なお,法律上営業秘密保護の規定があっても,裁判は公開であるため,訴訟に持ち出すのは難しいと考えられていました。現に本件判決でも,末尾に原告の主張する顧客名簿が添付されていますが,裁判所は,一般の事件については裁判記録を誰にでも閲覧させるのに対して,本件判決の一般人の閲覧請求を拒絶して,原告を保護しています。この拒絶が正当であるか否か,憲法等82条の規定との関係を巡って,新判例が出れば,営業秘密の保護についての裁判所の対応が,鮮明なものとなるでしょう。 |