知的所有権判例ニュース |
科学技術論文の著作物として 保護範囲が問題になった事例 |
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水谷直樹 |
1.事件の内容 |
本事件の原告大塩達一氏は脳波,神経回路網等の解析を専門とする研究者,被告川原琢治氏は流体力学の研究者であるところ,両者はいずれも脳波研究の共同研究会のメンバーであった。
原告は,被告が,国際的に著名な学術雑誌であるサイバネティック誌に掲載した2件の論文が,被告が著作権(共有持分のみのものを含む)を有する複数の論文を無断で複製したものであるとして,昭和60年に被告に対して,慰謝料の支払いおよび謝罪広告の掲載を求めて,京都地方裁判所に訴訟を提起しました。 |
2.争点 |
本事件での争点は,文字どおり,被告が単独または共同で作成した複数の論文が,原告の論文中で無断で複製されているのか否かとの点でありました。
特に,本事件では,科学技術論文の複製が問題になったために,どのような場合に無断複製が認められるのかが争点となりました。 |
3.裁判所の判断 |
(1) 京都地方裁判所は,平成2年11月28日に判決を言い渡し,上記争点につき,まず,
「ところで,著作権が保護対象としているのは,『思想・・・・・・を創作的に表現したもの・・・・・・』(著作権法2条1項1号)であって思想それ自体ではないが,科学研究の著作物は,一般に,ある主題を設定し,その主題につき理論或いは実験結果に基づき論証の筋道を分析・総合して構成し,これを言葉・文字・数式等によって表現して成るけれども,その性質上文学作品等とは異なり,言葉・文字等の表現手段の用法には余り創作的個性がないのが通常である(数式も,既成の方程式等は言葉や文字などと同じ表現手段の一つにすぎない。)反面,論証の筋道の構成が著作者の創作性を示すものとして重要な地位を占める。 したがって,科学研究の著作物について著作権侵害の有無を判断するにあたっては,単に外形上の表現の異同を検討するだけではなく,表現された内容の実質的異同をも検討しなくてはならない。」 と判示し,そのうえで,まず問題となった第一論文につき, 「この部分の文献《1》ないし《11》との外形上の表現の異同について検討するに,文献《1》ないし《11》にはこれと同一の表現は見当たらない。また,文献《1》ないし《11》は結合振動子系の導出過程を論述したものではなく,両者の表現は実質的にも相違している。」 として無断複製の事実はないものと認定し,次いで問題となった第二論文についても, 「以上のとおり,第二論文は一部分において文献《9》と表現をほぼ同一にする部分があるものの,それ以外では文献《1》ないし《11》とは,主題,構成及び表現を異にしているものということができる。 そして,文献《9》については,第二論文にこれが引用されていることは,当事者間に争いがない。したがって,右引用が適正なものであれば第二論文は,文献《1》ないし《11》を複製もしくは翻案したものであるとはいえない。」 「文献《9》は第二論文に引用されているものであるが,前掲甲第二号証の記載からみて,その引用の方法は著作権法32条の規定に適合し,適正なものと認められる。」 として,同様に無断複製はないものと認定し,結局原告の請求をすべて棄却いたしました。 (2) そこで,原告は,上記判決に不服であるとして大阪高等裁判所に控訴しましたが,同裁判所は,平成6年2月25日付判決中で, 「数学に関する著作物の著作権者は,そこで提示した命題の解明過程及びこれを説明するために使用した方程式については,著作権法上の保護を受けることができないものと解するのが相当である。一般に,科学についての出版の目的は,それに含まれる実用的知見を一般に伝達し,他の学者等をして,これを更に展開する機会を与えるところにあるが,この展開が著作権侵害となるとすれば,右の目的は達せられないことになり,科学に属する学問分野である数学に関しても,その著作物に表現された,方程式の展開を含む命題の解明過程などを前提にして,更にそれを発展させることができないことになる。このような解明過程は,その著作物の思想(アイデア)そのものであると考えられ,命題の解明過程の表現形式に創作性が認められる場合に,そこに著作権法上の権利を主張することは別としても,解明過程そのものは著作権法上の著作権に該当しないものと解される。」 と判示し,第一論文については一審同様に判断し,第二論文については, 「第二論文と文献《9》とは,使用し表されている方程式に同一のものがあり,また,記述している命題に共通する部分があることは否定できないものの,第二論文と文献《9》との間の表現形式において共通するところは,前記の引用した部分(第二論文においては, “Abstract”の冒頭の部分)にとどまる。そして,この共通する部分は,共通の命題をそのまま表したものにすぎず特に創作性のある表現形式によったものということはできない。また,方程式の使用は著作物性を有しないから,右に対比してみた方程式の共通性は,著作権侵害とすることはできないので,第二論文の記述をもって,文献《9》が複製若しくは翻案されたものであり,その著作権が侵害されたものということはできない。」 と判示して,控訴人の控訴を棄却しました。 |
4.検討 |
著作権法は,著作物の表現のみを保護し,アイデアを保護しませんが,科学技術論文の場合には,アイデアと表現が一体化したり,アイデアを表現する方法が限られることが多くみられ,このような場合には,表現とアイデアがマージ(merge)しているとして,著作権法による保護が拒否されることがあります。本件は,第一,二審で判断基準が異なっておりますが,特に第二審判決の判断基準は,実質的に上記マージの基準を判示しているとも言え,重要判決であると考えられます。
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