判例評釈 |
映像表現の利用による翻案権侵害の成否 −NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」事件− |
〔知財高判平成17年6月14日平成17年(ネ)10023号(東京高裁平成17年(ネ)486号)、 判時1911号138頁(控訴棄却)(東京地判平成16年12月24日、平成15年(ワ)25535号(請求棄却)、 最三決平成17年10月18日平成17年(オ)1414号、平成17年(受)1646号、(上告棄却))〕 |
三浦 正広 |
事実の概要 |
映画監督である黒澤明(故人)の相続人である控訴人ら(Xら:原告、黒澤久雄(長男)、黒澤和子(長女))は、被控訴人NHK(Y1:被告)製作の平成15年(2003年)放送の大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」1(吉川英治『宮本武蔵』:Y原作小説)第1回放映分「俺は強い!」2(放映時間約55分)が、黒澤明監督の映画「七人の侍」3の脚本(X脚本)および映画(X映画)を無断で翻案したものであり、同脚本についての黒澤明の著作権(翻案権)および著作者人格権(氏名表示権および同一性保持権)並びに同映画についての著作者人格権(氏名表示権および同一性保持権)を侵害したと主張して、Y1および同番組の脚本を担当した脚本家の鎌田敏夫(Y2:被告)に対し、同番組の複製・上映等の差止め、脚本の複製・出版等の差止め、マスターテープ等の廃棄、損害賠償1億5400万円の支払い、および謝罪広告、謝罪放送を求めた。
Xらは、X脚本の共同著作者である黒澤明の相続人として、(1)Y脚本によるX脚本の著作権(翻案権)および著作者人格権(氏名表示権および同一性保持権)の侵害、(2)Y番組によるX脚本の著作権(翻案権)および著作者人格権(氏名表示権および同一性保持権)の侵害を主張し、また、黒澤明はX映画の著作者として著作者人格権を有しているので、著作権法116条1項および2項により、著作者の死後の人格的利益の保護のため、差止請求権および名誉回復等の措置を請求することができるとして、(3)Y脚本によるX映画の著作者人格権(氏名表示権および同一性保持権)の侵害、(4)Y番組によるX映画の著作者人格権(氏名表示権および同一性保持権)の侵害を主張した。 そして、Y脚本およびY番組とX脚本およびX映画が類似していること、Y脚本およびY番組はX脚本およびX映画に依拠していること、さらに、次の《1》〜《4》の各類似点においてX脚本の表現上の本質的な特徴をY脚本から直接感得することができると主張している。 《1》 村人が侍を雇って野武士と戦うというストーリー 《2》 別紙対比目録1および2記載の11箇所の類似点 《3》 配役における類似点。すなわち西田敏行の演じた内山半兵衛と志村喬の演じた島田勘兵衛、寺田進の演じた追松と宮口精二の演じた久蔵の類似 《4》 戦場や村に漂う霧および豪雨の中の合戦の表現(これは主としてX映画の特徴である) また、Xらは、この《1》〜《4》の各類似点の主張に加えて、《1》〜《4》の類似点が組み合わされることによって、X脚本全体が想起されるようになり、Y脚本がX脚本の模倣作品と評価されるとも主張している。 これに対して、YらはY脚本およびY番組から、X脚本およびX映画の表現形式における本質的な特徴を直接感得することはできず、翻案権および著作者人格権を侵害するものではないことを主張する。 そして、吉川英治は、Y原作小説の「土匪来」の章および「征夷」の章(文庫版第6巻)において、野武士集団から村を守る戦いを描いているところ、これとX脚本およびX映画とは、収穫を狙って数年おきに野武士集団が村を襲うこと、浪人が指導・激励して、未熟で戦意を失いがちな村人を武装させ、野武士集団に立ち向かわせること、浪人の授ける戦術は敵を分断して少数にした上で村人たちが大勢で取り囲んで襲うというものであること、村人たちは野武士集団の撃退に成功して村に平和が戻ることという設定において顕著な類似性が認められる(なお、筒井清忠『時代劇映画の思想』(PHP新書)58頁は、X脚本およびX映画がY原作小説に依拠していると指摘している。関川夏央『本読みの虫干し』(岩波新書)86頁は、「Y原作小説において、村が野武士の一団に襲われ、なすところない農民を武蔵が指導して反撃に転じさせることや、武蔵の力量をはかろうとして物陰にひそんで刀に手をかけていた柳生但馬守の気配を武蔵が察してこれを避けた点が、X脚本およびX映画のヒントになったと私は考えている。Y原作小説の影響は広く大きいのである」としている。産経新聞平成11年1月23日朝刊掲載の宮崎興二「21世紀へ残す本残る本『宮本武蔵』吉川英治著」は、X脚本およびX映画の名場面はY原作小説の一部分を脚色していると指摘している。熊本日日新聞がインターネット上に掲載する「現代に問う 宮本武蔵」中の水野治太郎「社会に浮遊する単独者」は、Y原作小説の法典ヶ原のシーン(前記「土匪来」の章および「征夷」の章)が、後にX脚本およびX映画の原型となるとしている)と主張する。 また、X脚本またはX映画とは別個の著作物であって、X脚本またはX映画における表現形式上の本質的な特徴を維持しつつその外面的な表現形式に改変を加えたものではなく、実際、Y番組を視聴した際に、X映画の表現形式上の本質的な特徴を感得することは不可能である。したがって、X脚本およびX映画についての黒澤明の同一性保持権を侵害することはないと反論した。 第一審の東京地裁は、X脚本とY脚本は、ストーリー上の共通点があるものの、ストーリー展開やそのテーマにおいて相違している、両者の共通点はアイデアにとどまるものであるにすぎない、さらに、Y脚本からX脚本の表現上の本質的な特徴を感得することはできないという理由で、Y脚本によるX脚本の翻案権侵害を否定し、Xらの請求を棄却した4。 これに対して、Xらは控訴し、テレビドラマ「武蔵 MUSASHI」はその一部に、映画「七人の侍」のストーリーおよび象徴的な場面を、一種の劇中劇のような形で取り込み、はめ込んだ手法は「はめ込み型模倣」といわれるものであり、これまでの裁判例にはなかったものであるから、翻案権侵害に関する従来の手法による対比は有効ではない、すなわち、原審が、Xらが類似していると指摘した各場面を比較検討した結果、ストーリー展開や具体的な描写に相違があると判断したそれぞれの部分は、無理な「はめ込み型模倣」が行われた当然の帰結であるなどと主張した。(「別紙対比目録」については、最高裁ホームページ参照) |
判 旨 |
控訴棄却
1.Y脚本によるX脚本の翻案権侵害、著作者人格権侵害(争点1) 「『翻案』(著作権法27条)とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして、著作権法は、思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(同法2条1項1号参照)、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア等において既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案には当たらないと解するのが相当である(最高裁平成11年(受)第922号同13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁参照)。 したがって、Y脚本がX脚本を翻案したものと評価されるためには、Y2が、X脚本に依拠してY脚本を作成し、かつ、Y脚本からX脚本の表現上の本質的な特徴を直接感得することができることが前提となるが、その際、具体的表現を離れた単なる思想、感情若しくはアイデア等においてY脚本がX脚本と同一性を有するにすぎない場合には、翻案に該当しないというべきである」(原判決を引用)。 「当裁判所も、著作権法27条にいう『翻案』とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいい、したがって、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案には当たらないと解するのを相当とする(最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁参照)。X映画は、原判決も指摘するように、Y番組に比しはるかに高い芸術性を有する作品であることは明らかであるものの、以下に述べるとおり、Y番組がX映画との間で有する類似点ないし共通点は結局はアイデアの段階の類似点ないし共通点にすぎないものであり、X映画又はその脚本の表現上の本質的特徴をY番組又はその脚本から感得することはできないというべきであるから、Y番組が黒澤明の有する著作権(翻案権)を侵害するものではない」(本判決)。 (1)基本的なストーリーおよびテーマの比較(以下、4.まで原判決を引用) 「X脚本は、野武士の襲来に悩まされる村人が腕の立つ侍を雇ってこれを撃退するというストーリーであって、村人や侍たちの視点を軸に物語が展開されている。一方、Y脚本は、連続時代劇の第1話として、Y原作小説の関ヶ原から辻風一党との闘争に至る部分を脚本化したもので、主要登場人物の顔見世的な人物紹介場面を織り交ぜつつ、辻風一党に狙われた母娘に雇われた主人公の武蔵を中心としてストーリーを展開し、ドラマ全体のテーマである『生き抜く』というメッセージを発するとともに、武蔵が己の強さを自覚するというものである。 このように、X脚本とY脚本は、野盗に狙われた弱者に侍が雇われて、これを撃退するという大筋において、一致が認められる。しかし、ストーリーの展開を検討すると、X脚本においては、ストーリーの中心となる主人公が特定の人物に限られておらず、農民たち、勘兵衛、菊千代など様々な登場人物の視点がからみあってストーリーが展開されるとともに、人物の性格や場面について細かな設定がされていること、武芸にまつわる江戸期の伝承を取り込んでストーリーの細部が構築されている点に特徴がある。一方、Y脚本は、関ヶ原の合戦で活躍できなかった武蔵が、戦の後に知り合った母娘の敵として登場する野盗の頭領の辻風典馬を倒すという基本的なストーリーであり、その点はY原作小説と一致している。 そして、Y脚本のうち、主要登場人物の顔見世的な人物紹介場面(この部分が、X脚本と何ら関係がなく、著作権侵害・著作者人格権侵害の問題を生じないことは明らかである。)を除いた部分をX脚本と対比すると、Y原作小説の物語を基本として主人公の武蔵を軸にその視点からストーリーが展開されている点、野盗の急襲によって守備側の中心である半兵衛と追松があえなく討ち死にしてしまい、武蔵がほとんど独力で野盗の頭領である辻風典馬を倒す点で、X脚本が農民や侍たち等の複数の視点からストーリーを構築し、侍たちが農民と協力して野武士を撃退するというストーリー展開をしているのと大きく相違する。 さらに、そのテーマを検討すると、X脚本においては、侍を雇った農民たちが落ち武者狩りによって得た武具を隠し持っていたこと、野武士を撃退した農民たちが田植えに励むのを見た勘兵衛が「勝ったのは、あの百姓たちだ。」とつぶやく場面などに表れているように、一見非力な農民のしたたかさ、力強さがうたい上げられている。一方、Y脚本は、青年武蔵が己の強さを自覚し、生き抜く誓いをたてるという1人の人間の成長の物語というべきものである。 上記によれば、X脚本とY脚本は、ストーリー展開やそのテーマにおいて、相違するということができる。したがって、X脚本とY脚本との間に、村人が侍を雇って野武士と戦うという点においてストーリー上の共通点が存在するにしても、そのことを理由として、Y脚本をX脚本の翻案ということはできない」。 (2)ストーリー全体のなかでの当該エピソードおよび場面の対比 (ア)怪しい男が実は女であったという場面について(別紙対比目録1記載の類似点1) 「X脚本とY脚本では、当該場面における具体的な描写が異なっている上、X脚本においては、雇われた侍による狼藉をおそれた父親により男装させられている志乃に勝四郎が出会い、その後、2人が人目を忍んで逢瀬を重ねることとなるきっかけとして当該場面が描かれており、ストーリー全体を通じても重要な場面であるのに対して、Y脚本においては、単に武蔵がお甲母娘に出会う伏線として描かれているにすぎず、ストーリー全体のなかでの当該場面の位置づけが大きく異なる。 上記のとおり、X脚本とY脚本とを対比すると、怪しい者を取り押さえたところ、胸に手が触れて女であることに気づくという点で共通するが、両者の間の共通点としてとらえられる上記の点はアイデアにとどまるものであり、また、男性の身なりに扮装していた女性の胸に手を触れることによって、女性であることに気づくという場面は、他の作品にも見られるものであり、このような設定自体をもってX脚本独自のものということも困難である。 上記によれば、別紙対比目録1記載の類似点1の点において、Y脚本をX脚本の翻案ということはできない」。 (イ)侍の腕試し場面について(別紙対比目録1記載の類似点2ないし5) 「戸陰から打ちかかることによって侍の技量を確かめようとしたところ、武芸に秀でた侍は攻撃の気配をあらかじめ察し、相手に攻撃の機会を与えないという場面設定自体は、江戸期の武芸者の逸話に少なからず見られるものであり、時代劇において達人の技量をはかる手段としてしばしば用いられる手法ということができる。そこで、上記のような場面設定において、試される侍が具体的にいかなる対応をしたのかという点を見るに、X脚本においては、腕を試された1人目の侍(氏名不詳)は鉄扇で袋竹刀を払いのけ、2人目の侍(五郎兵衛)は気配を察して『誰方じゃ、冗談が過ぎますぞ』と言って攻撃を事前に制するのに対し、Y脚本においては、1人目の侍(武蔵)は何とか攻撃を通り抜け、2人目の侍(又八)は戸陰に人が隠れていることを知らされていたので攻撃を防御することができ、3人目の侍(追松)は気配に気づいて逆に攻撃をしかけ、4人目の侍(半兵衛)は気配に気づいてその真意を尋ねるという内容になっている。このように、X脚本とY脚本とでは、技量を試された侍の反応やその発する言葉は相違している。 上記によれば、別紙対比目録1記載の類似点2ないし5の点において、Y脚本からX脚本の表現上の本質的な特徴を感得することはできないというべきであり、Y脚本をX脚本の翻案ということはできない」。 (ウ)野盗との戦闘場面について(別紙対比目録1記載の類似点7ないし10) 「〔野武士が騎馬で疾走して攻めてくるという点、乱戦の中で攻めてきた野武士が退却するという点、最後の戦いが雨中の乱戦であるという点等〕は、いずれも、野武士との抗争場面に関するものであるところ、『雇われた侍によって一度は野武士が撃退され、野武士と侍との間の最後の決戦は雨の中で行われる。』という点で共通する。 しかしながら、前記共通点であるところの、攻撃側が騎馬で攻め込んでくること、攻撃を受けていた側に加勢が入ることによって、攻撃側が退却を余儀なくされることや雨中において戦いが行われること自体は、場面設定としてアイデアにとどまるものといわざるを得ない。 他方、ストーリー全体のなかでの当該場面の位置づけ及び当該場面の具体的な描写についていえば、X脚本においては、雇われた侍と村人たちが一致協力して野武士の集団と死闘を繰り広げる様子を描写することで侍と村人との一体感、自衛に立ち上がった農民の力強さを見る者に印象づけるという観点から設定された場面であり、具体的な戦闘場面としては、村を取り囲む地形や各侍の個性・技量をも具体的に考慮して野武士に対する備えを準備し、野武士を分断して多数でせん滅する作戦を基本とした戦いが描かれている。これに対して、Y脚本においては、戦闘場面の描写を通じて、半兵衛の存在を強調してその討ち死にを見る者に印象づけるとともに、武蔵が『生き抜く』ことの大切さを知り、同時に自らの強さを自覚するという観点から設定された場面であり、具体的な戦闘場面としては、武蔵らは柵などの備えを全く設けず、野盗の一団を分断させるような策も講じないまま野盗と戦っており、野盗側としてもいったん撃退された後に改めて奇襲を行い、武芸者の半兵衛と追松を討ち取るなど一定の成果を上げている。 上記によれば、別紙対比目録1記載の類似点7ないし10の点において、Y脚本からX脚本の表現上の本質的な特徴を感得することはできないというべきであり、Y脚本をX脚本の翻案ということはできない」。 (3)人物設定について (ア)島田勘兵衛(X脚本)と内山半兵衛(Y脚本) 「両者は、侍たちのリーダー格であること、技量が優れていながら、不遇な境遇を送ってきたという点において共通する。しかしながら、内山半兵衛(Y脚本)は、主人公の武蔵に『生き抜く』という大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』全体に通じる主題を伝えた後にあえなく討ち死にしており、仲間を失いつつも最後まで生き残る島田勘兵衛(X脚本)とは相違している。 上記によれば、各脚本における人物設定の点において、内山半兵衛(Y脚本)が島田勘兵衛(X脚本)に類似しているとは認められない」。 (イ)久蔵(X脚本)と追松(Y脚本) 「両者は、剣術に優れ、己の技を磨き上げることに生涯を捧げるかのような生き方をしている点において共通する。しかしながら、Y脚本において、追松は、戦いの中に身を投じている内に心がすさみきった者であると説明され、主人公武蔵に対する反面教師というべき役割を担っているのに対し、X脚本における久蔵は、単身で敵陣に乗り込んで鉄砲を奪い取って若侍の勝四郎の憧憬の対象となったり、勝四郎と村娘・志乃の間の密会を見て見ぬふりをするなど、人間味のある性格の人物として描かれており、追松(Y脚本)と相違する。 上記によれば、各脚本における人物設定の点において、追松(Y脚本)が久蔵(X脚本)に類似しているとは認められない」。 (4)戦場や村に漂う霧および豪雨の中の合戦の表現について 「X脚本の最後の戦いの場面は、雨中での戦いとして、極めて著名な場面である。そして、Y脚本においても、最後の戦いは雨中で行われるほか、冒頭の関ヶ原合戦後の場面において、霧ないし雨が使用されている。しかし、Y脚本において霧ないし雨の場面を設定したことから、直ちにX脚本の表現上の本質的な特徴を感得させるものということはできない」。 (5)類似する諸要素の有機的結合について 「たしかに、ある著作物(X著作物)におけるいくつかの点が他の著作物(Y著作物)においても共通して見受けられる場合、その各共通点それ自体はアイデアにとどまる場合であっても、これらのアイデアの組み合わせがストーリー展開の上で重要な役割を担っており、これらのアイデアの組み合わせが共通することにより、Y著作物を見る者がX著作物の表現上の本質的な特徴を感得するようなときには、Y著作物が全体としてX著作物の表現上の本質的な特徴を感得させるものとしてX著作物の翻案と認められることもあり得るというべきである。 そこで本件についてみるに、たしかにX脚本とY脚本は、村人が侍を雇って野武士と戦うという点においてストーリーに共通点が見られ、また、別紙対比目録1(ただし、6及び11を除く。)記載の各場面において、アイデアにとどまるものではあるが、共通点が見られ、登場人物の設定の点でも、内山半兵衛(Y脚本)と島田勘兵衛(X脚本)の間、追松(Y脚本)と久蔵(X脚本)の間に一定の共通点が見られる。しかしながら、既に・・・・・・検討したとおり、別紙対比目録1(ただし、6及び11を除く。)記載の各場面については、X脚本とY脚本との間でストーリー全体のなかでの位置づけが異なる上、具体的な描写も異なるものであり、また、人物設定の点もストーリーのなかでの当該人物の役割やその性格づけに着目すれば類似するものとは認められない。そして、X脚本においては、Xらの挙げる上記の各場面のほかに多くのエピソードが描かれており、島田勘兵衛及び久蔵のほかに多くの個性的な人物が登場するものであり、そこでは、7人の侍について各人の個性が見事なまでに描き切られており、作品全体を通じて、侍たちの義侠心と村人に対する暖かい視線、野武士との闘いを通じて形成される侍たち相互そして侍たちと村人との間の心の触れあいと連帯感、一見非力な農民のしたたかさ・力強さ等のテーマが、人間に対する深い洞察力に裏打ちされた豊かな表現力をもって、見る者に強烈に訴えかけられているものである。これに対して、Y脚本においては、主人公武蔵が歴戦の武芸者から薫陶を受けるとともに自己の強さを自覚する契機として野盗との戦闘場面が設定されているにすぎない。X脚本とY脚本の間に上記のようなアイデア・設定の共通点が存在するとはいっても、X映画をして映画史に残る金字塔たらしめた、上記のようなX脚本の高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素については、Y脚本からはうかがえない。 上記によれば、XらがX脚本とY脚本との類似点として挙げる各点を総合的に考慮して、X脚本とY脚本を全体的に比較しても、X脚本の表現上の本質的な特徴をY脚本から感得することはできないから、Y脚本をもってX脚本の翻案ということはできない」。 (6)結論 「上記によれば、X脚本とY脚本とを対比すると、前記のとおりいくつかの場面において一定の共通点が認められるが、共通する部分はアイデアの段階にとどまるものであり、登場人物の人物設定についても類似するものとは認められない。また、X脚本とY脚本との間には、ストーリー全体の展開やテーマにおいて相違があり、結局、X脚本の表現上の本質的な特徴をY脚本から感得することはできないから、Y脚本によるX脚本についての著作権(翻案権)及び亡黒澤の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害は認められない」。 2.Y番組によるX脚本の翻案権侵害、著作者人格権侵害(争点2) (1)Y番組のうちY脚本にもとづいて製作された部分について 「Y番組は、Y脚本に依拠してこれを翻案して製作された、Y脚本の二次的著作物であって、Y脚本とは、その著作物としての特徴を基本的に共有する関係にあるものである。・・・・・・ まず、Y番組のうちY脚本に基づいて製作された部分(別紙対比目録2記載のY番組の内容のうち、6及び11を除く部分)について、XらがX脚本についての著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害の理由として述べるところは、Y脚本によるX脚本の著作権及び著作者人格権侵害の理由として述べるところ(別紙対比目録1の類似点のうち、6及び11を除く部分)と同様であり、次の《1》ないし《4》のとおりである。また、Xらは、《1》ないし《4》の各類似点の主張に加えて、《1》、《3》及び《4》の類似点並びに《2》の類似点に別紙対比目録1、2における6及び11のシーンの類似を併せて組み合わせることによって、X脚本全体が想起されるようになり、Y番組がX脚本の模倣作品と評価されるとも主張している。 《1》 村人が侍を雇って野武士と戦うというストーリー 《2》 別紙対比目録2記載のY番組の内容の9箇所(6及び11を除いたもの)と別紙対比目録1記載のY脚本の内容の9箇所(6及び11を除いたもの)の類似 《3》 西田敏行の演じた内山半兵衛と志村喬の演じた島田勘兵衛、寺田進の演じた追松と宮口精二の演じた久蔵の類似。 《4》 戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現 上記のとおり、Y番組はY脚本の二次的著作物であって、脚本とこれにより製作された番組という関係上、Y番組はY脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものである・・・・・・。したがって、前記・・・・・・(争点1についての判断)において説示したのと同様の理由により、上記《1》ないし《4》については、これからX脚本の表現上の本質的な特徴を感得できるものとは認められない」。 (2)Y番組のうちY1が、Y脚本にもとづかずにX脚本から直接翻案したとされる部分について (ア)注意をひきつけるために物を投げる場面について(別紙対比目録1および2記載の6) 「X脚本とY番組を対比すると、相手方の注意をそらすために物を投げるという点で共通する。しかし、このような場面設定自体は、『本朝武芸小伝』における伝承にもあらわれているもので、時代劇においてしばしば用いられるものである。そして、X脚本では拘束者の目を人質から他にそらさせる方法として用いられているのに対し、Y番組では、腕試しで対峙し、攻撃を誘うかのような追松に対し、半兵衛が用いた策であって、これに対する追松の対応も重要な要素である。したがって、物を投げられた相手の対応と一体のものとして、Y番組における表現を考察すべきであるところ、鈴を投げられた追松の対応を含めてX脚本とY番組とでは具体的な描写が異なるものであって、この点を考慮すれば、注意をひきつけるために物を投げる点が共通しているからといって、Y番組からX脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない」。 (イ)武蔵が地面に突き立ててあった刀で戦う場面について(別紙対比目録1および2記載の11) 「X脚本とY番組とを対比すると、刀が使えなくなるとあらかじめ地面に突き立てておいた武器に取り替えて戦いを続けるという点が共通する。しかし、・・・・・・剣豪将軍として名高かった将軍足利義輝が松永久秀の軍勢に襲撃された際に、自らの周囲にあまたの名刀を突き立て、刀を取り替えつつ奮戦したが、衆寡敵せず、殺害されたという故事があり、多くの時代小説等において取り上げられていることが認められる。 上記のとおり、戦闘においてあらかじめ地面に突き立てておいた刀等を用いて戦うという設定自体は、時代小説等においてしばしば見られるものであり、加えて、X脚本とY番組では、上記の場面における具体的な戦闘状況の描写は異なるものであるから、上記の共通性をもってY番組からX脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない」。 (3)(1)と(2)を組み合わせることによって、X脚本全体が想起されるかについて 「上記《1》ないし《4》にY脚本にない上記2箇所を含めて総合的に考慮して、全体的に比較しても、Y番組とX脚本とでは、各場面のストーリー全体のなかでの位置づけが異なる上、具体的な描写も異なるものであり、Y番組からX脚本の表現上の本質的な特徴が感得されるものではない」。 (4)「上記によれば、X脚本とY番組を対比すると、前記のとおりいくつかの場面等において一定の共通点が認められるが、結局、X脚本の表現上の本質的な特徴を被告番組から感得することはできないから、Y番組によるX脚本についての著作権(翻案権)及び亡黒澤の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害は認められない」。 3.Y脚本によるX映画の著作者人格権侵害(争点3) 「X映画は、X脚本に依拠してこれを翻案して製作された、X脚本の二次的著作物であって、X脚本とは、その著作物としての特徴を基本的に共有する関係にあるものである。 X映画はX脚本の二次的著作物であって、脚本とこれにより製作された映画という関係上、X映画はX脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものである・・・・・・。 したがって、前記(争点1についての判断)において説示したのと同様の理由により、Y脚本については、これからX映画の表現上の本質的な特徴を感得できるものとは認められない。 上記によれば、X映画とY脚本を対比すると、いくつかの場面等において一定の共通点が認められるが、結局、X映画の表現上の本質的な特徴をY脚本から感得することはできないから、Y脚本によるX映画についての亡黒澤の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害は認められない」。 4.Y番組によるX映画の著作者人格権侵害(争点4) 「Y番組は、Y脚本に依拠してこれを翻案して製作された、Y脚本の二次的著作物であって、Y脚本とは、その著作物としての特徴を基本的に共有する関係にあるものである。一方、X映画は、X脚本に依拠してこれを翻案して製作された、X脚本の二次的著作物であって、X脚本とは、その著作物としての特徴を基本的に共有する関係にあるものである。 X映画はX脚本の二次的著作物であって、脚本とこれにより製作された映画という関係上、X映画はX脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものである・・・・・・。 したがって、前記(争点2についての判断)において説示したのと同様の理由により、Xらの主張するY番組の上記の各点については、これからX映画の表現上の本質的な特徴を感得できるものとは認められない。 なお、X映画はX脚本に基づいて製作され、X脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものであり、Y番組はY脚本に基づいて製作され、Y脚本の表現上の本質的な特徴を同様に有するものであるが、X映画とY番組はともに映画の著作物であることから、これを対比する場合、上記の検討に加えて、映像として表現されている各場面のカメラワーク、カット割り、音声等の画像特有の点をも対比するのが相当であるところ、X映画は、各画面において上記の各点においてその技法に優れ、高度の芸術性を有するものであるが、本件においてXらの主張する各類似点についてY番組と対比を行う上においては、特に特定の場面の画像についてその映像上の技法・特徴を付加して対比を行うまでの必要は見受けられない(Xらは、『戦場や村に漂う霧及び豪雨の中の合戦の表現』について、特にX映画の特徴として主張するが、この点の類似をいう点についても、前記・・・・・・に記載したのと同様の理由により、Y番組がX映画の表現上の本質的な特徴を感得させるということはできない。)。 上記によれば、X映画とY番組を対比すると、いくつかの場面等において一定の共通点が認められるが、結局、X映画の表現上の本質的な特徴をY番組から感得することはできないから、Y番組によるX映画についての亡黒澤の著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)の侵害は認められない」(以上、原判決を引用)。 5.結論 「著作権法の保護を受ける著作物とは、『思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの』(著作権法2条1項1号)であり、それが著名であるか否かによって、その保護に差異があるということはできない。そして、『翻案』(著作権法27条)とは、前述のように、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいうところ、著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得するものであるか否かも、対象となる原著作物が著名であるか否かによって差異があるということはできない。 対象となる著作物が著名である場合には、それが無名の著作物である場合と比べて翻案との類似度が低くても『感得』の要件が満たされると判断すべきであるとの前提を採用し得ないことは、上記・・・・・・のとおりである。そして、『七人の侍』と『武蔵 MUSASHI』を対比すると、いくつかの類似点ないし共通点が認められるが、これらはいずれもアイデア等、表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分であって、後者の表現から前者の表現上の本質的な特徴を直接感得することができないことは、原判決も詳細に説示するとおりである。 以上によれば、Y2の脚本及びY1の番組は、Xら脚本の著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権と同一性保持権)並びにXら映画の著作者人格権(氏名表示権と同一性保持権)を侵害するものと認めることはできないから、XらのYらに対する請求をいずれも棄却した原判決は相当である」(本判決)。 |
評 釈 |
1.本判決の位置づけおよび本件の争点
本判決は5、「翻案」の定義づけについて、「北の波濤に唄う」(江差追分)事件に関する最高裁平成13年6月28日の判決を踏襲し6、翻案権侵害の判断基準について、従来の判例理論にしたがったものと理解することができる7。すなわち、著作物を創作するにあたっての既存の著作物の依拠性および著作物の同一性ないし類似性について判断するとともに、両者を比較して、表現上の本質的な特徴を直接感得することができるか否かを翻案権侵害の判断基準とするものである。 本来、本件はX映画とY番組における映像としての表現の類似性ないし翻案権侵害の問題として議論されるべきであると思われるが、X脚本の翻案権侵害、著作者人格権侵害の問題が前面に押し出され、これらが主たる争点として議論されており、映像表現における翻案権侵害の問題が重点的に議論されているわけではないことに注意すべきであろう。 Xらは、X脚本については著作権(翻案権)を有するが、本判決における事実概要からは、X映画についての著作権関係は定かではなく、著作権法116条にもとづき著作者の死後における人格的利益の保護を主張しているにすぎない。 本判決の争点は、次の4つである(原判決と同じ)。 争点1:Y脚本によるX脚本の翻案権侵害、著作者人格権侵害(判旨1) 争点2:Y番組によるX脚本の翻案権侵害、著作者人格権侵害(判旨2) 争点3:Y脚本によるX映画の著作者人格権侵害(判旨3) 争点4:Y番組によるX映画の著作者人格権侵害(判旨4) 2.翻案権侵害の判断基準(争点1および2) (1)「翻案」の意義および類似性 かつて「翻案」とは、「既存の著作物の内面形式は維持しながら、外面形式を大幅に変更すること」をいうとされていた。裁判例のなかにも、著作権による著作物の保護範囲を確定するにあたり、内面的表現形式と外面的表現形式とに分類する考え方を採用しているものが数多く認められる8。しかし現在では、「北の波濤に唄う」事件において最判平成13年6月28日が判示したように、「言語の著作物の翻案(著作権法27条)とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう」と定義づけられている9。 これを受けて、本判決は、「当裁判所も、著作権法27条にいう『翻案』とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいい、したがって、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案には当たらないと解するのを相当とする」と定義づけた。 本判決は、「翻案」の意義について前記最高裁判決を引用し、さらに、同じ最高裁判決を引用した原判決の翻案の定義に関する部分を重複して引用している。 著作権法により保護されるのは、著作物としての創作性であり、かつての議論のように、著作物の保護の範囲を著作物の形式や内容に分類することはそれほど意味のあることではなく、最終的に、著作物の表現形式をめぐる従来の議論は10、ある意味においてアイデアと表現の二分論に帰着するといえる11。本件においても、Y脚本およびY番組とX脚本およびX映画との類似性は、アイデアのレベルにとどまるものであって、著作権法の保護対象となる表現上の本質的な特徴を直接感得させるものではない、というのが本判決の基本的な立場である。 しかし、著作物におけるアイデアと表現は常に連続しているものであり、表現形式において機械的に分離することは不可能であるが、著作権法によって保護されるのは、創作的な「表現」であって、創作的なアイデアではない。したがって、アイデアと表現の連続性を考慮するならば、アイデアに創作性が認められない場合には、そのようなアイデアにもとづく表現は純粋に創作的な表現とはいえないという帰結をもたらすと考えることもできよう。表現に創作性が必要であるということは、表現を支えているアイデアにもある程度の創作性が必要であるといえる。表現の利用は、間接的にアイデアの利用ということになる。1つの著作物におけるアイデアと表現は、時間と空間のように、決して分離できるものではないのであるから、創作的なアイデアを利用していると認定された場合は、その表現の創作性はより厳格に判断されるべきであろう。これは、著作物としての成立要件である創作性を尊重する著作権法の趣旨から考えても妥当であるといえよう12。 本件において、Y脚本によるX脚本の翻案権侵害(争点1)を議論するにあたり、Xらは、上記《1》〜《4》の各類似点においてX脚本の表現上の本質的な特徴をY脚本から直接感得することができると主張している。また、Xらは、《1》〜《4》の各類似点の主張に加えて、《1》〜《4》の類似点が組み合わされることによって、X脚本全体が想起されるようになり、Y脚本がX脚本の模倣作品と評価されるとも主張している。 しかし判決は、Xが主張するX脚本とY脚本との類似点を詳細に比較検討し、X脚本とY脚本は、ストーリー展開やそのテーマにおいて相違するから、ストーリー上の共通点があるとしても、それを理由として、Y脚本をX脚本の翻案ということはできない、両者の共通点としてとらえられる点はアイデアにとどまるものであるにすぎないから、Y脚本をX脚本の翻案ということはできない、さらに、Y脚本からX脚本の表現上の本質的な特徴を感得することはできないから、Y脚本をX脚本の翻案ということはできないなどと述べて、Y脚本によるX脚本の翻案権侵害を否定する。支配的な学説や従来の裁判例13の基本的な考え方にしたがい、判決は、アイデアと表現の二分論を前提として、アイデアは保護しえないが、表現についてもその本質的特徴を直接感得しうる場合のみ保護されるとする立場に立つ。以下ではその具体的な内容について考察する。 (2)表現上の本質的特徴の直接感得可能性 これまでのほとんどの翻案権侵害事例における裁判例がそうであったように、裁判例は、著作物の類似性や依拠性を認定するものの、最終的には、一方の著作物から他方の著作物の表現上の本質的特徴を直接感得することができないとして、翻案権侵害を否定する傾向が強い。 本件において、Xらは、本件の特異性として、対象となる原著作物が著名である場合は、従来の裁判例が採用してきた翻案権侵害の判断基準を用いたのでは妥当な結果を導くことはできないから、翻案との類似度が低くても「感得」の要件が充たされると判断すべきであると主張するが、本判決は、著作物の表現上の特徴を直接感得するものであるか否かは、対象となる原著作物が著名であるか否かによって差異があるということはできない、そして、「七人の侍」と「武蔵 MUSASHI」を対比すると、いくつかの類似点ないし共通点が認められるが、これらはいずれもアイデア等、表現それ自体ではない部分または表現上の創作性がない部分であって、後者の表現から前者の表現上の本質的な特徴を直接感得することはできないとして、Xらの主張を退けた。 本件控訴審において、Xらは、本件でYが用いた手法は、映画「七人の侍」のストーリーおよび象徴的な場面が、テレビドラマ「武蔵 MUSASHI」の一部に、一種の劇中劇のような形で取り込まれ、はめ込まれた「はめ込み型模倣」といわれる手法であり、無理な「はめ込み型模倣」が行われると、ストーリー上のいくつかの類似点ないし共通点が認められるが、ストーリー展開や具体的な描写に相違があると判断されることになり、従来の判断基準を用いるかぎり、結果として翻案権侵害は否定されることになると主張する。 ストーリー展開を伴う著作物においては、Xらが主張する「はめ込み型模倣」が意味するところと同様に、ストーリー展開のなかで、既存の著作物の部分が翻案されて利用されているにすぎない部分的翻案の場合は、翻案権侵害は否定されやすいが、初めから終わりまで、ストーリーがほぼ全体にわたって翻案されている全体的翻案の場合は、テーマが異なり、細部のストーリーや個別的な場面が類似していなくても、翻案権侵害の可能性が高くなるといえる。 判決は、Xが、類似している、翻案権を侵害していると主張する一つ一つの場面について比較検討し、結果的に「表現上の本質的特徴を直接感得することはできない」と述べて、悉く翻案権侵害を否定した。この場合、判決は、どのような意味においてこの「表現上の本質的特徴」という文言を用いているのであろうか。少なくとも本件に関していえば、「表現上の本質的特徴」というのは、X脚本における一貫した表現上の特徴であるのか、あるいは、対比されるそれぞれの場面における固有の表現上の特徴であるのかは明確ではない。判決は、「表現上の本質的特徴」とは具体的に何を指しているのか説明する必要がある。「表現上の本質的特徴」という文言自体きわめて抽象的で曖昧な文言であり、具体的な場面を前提としたとしても、その「表現上の本質的特徴」を明確にすることはおそらく不可能であろう。判決が、その判決理由のなかで「表現上の本質的特徴」という文言を用いるのであれば、やはり少なくとも「表現上の本質的特徴」の定義または内容について説明すべきであり、一般的に定義づけられないものであるならば、「表現上の本質的特徴」という文言を用いて比較対照したそれぞれの場面について、「表現上の本質的特徴」とは何かを明らかにしたうえで、それを直接感得することができるか否かを判断すべきであろう。 (3)アイデアの「有機的結合」 Xらは、X脚本の本質的特徴は、前記X脚本とY脚本の類似点《1》〜《4》の各要素を有機的に結合して完成した全体にあるところ、Y脚本の読者は、これをY脚本から直接感得することができるとして、著作権(翻案権)および著作者人格権(氏名表示権および同一性保持権)侵害を主張する。 ここで、Xらが主張するアイデアの有機的結合とは、類似している場面の一つ一つはアイデアを利用しているにすぎないが、それらのアイデアを組み合わせて利用することで表現上の本質的特徴を感得させる効果を生じさせることをいうものである。 本判決は、一般論として「ある著作物(X著作物)におけるいくつかの点が他の著作物(Y著作物)においても共通して見受けられる場合、その各共通点それ自体はアイデアにとどまる場合であっても、これらのアイデアの組み合わせがストーリー展開の上で重要な役割を担っており、これらのアイデアの組み合わせが共通することにより、Y著作物を見る者がX著作物の表現上の本質的な特徴を感得するようなときには、Y著作物が全体としてX著作物の表現上の本質的な特徴を感得させるものとしてX著作物の翻案と認められることもあり得るというべきである」(原判決を引用した部分)と述べて、Xが主張するところのアイデアの有機的結合が著作物の表現上の本質的特徴を感得させる可能性があるという理解を示してはいるが、学説や従来の裁判例における支配的な見解であるアイデアと表現の二分論を前提とした場合、たとえアイデアの有機的結合が表現上の本質的特徴の感得可能性を高めることはあっても、だからといってそれによって翻案権侵害を肯定する結論を導くようなことは理論的にも辻褄が合わない。 やはり判決は、結論として「たしかにX脚本とY脚本は、・・・・・・ストーリーに共通点が見られ、また、別紙1・・・・・・記載の各場面において、アイデアにとどまるものではあるが、共通点が見られ、登場人物の設定の点でも、・・・・・・一定の共通点が見られる。しかしながら、・・・・・・X脚本とY脚本との間でストーリー全体のなかでの位置づけが異なる上、具体的な描写も異なるものであり、また、人物設定の点もストーリーのなかでの当該人物の役割やその性格づけに着目すれば類似するものとは認められない」(原判決を引用した部分)と判示して、結局のところ、アイデアの有機的結合による翻案権侵害を否定するに至る。 さらに判決は、表現上の本質的特徴の感得可能性について判示するに際して、両脚本の表現の対比にとどまらず、「X脚本とY脚本の間に上記のようなアイデア・設定の共通点が存在するとはいっても、X映画をして映画史に残る金字塔たらしめた、上記のようなX脚本の高邁な人間的テーマや豊かな表現による高い芸術的要素については、Y脚本からはうかがえない」「X映画は、各画面において上記の各点においてその技法に優れ、高度の芸術性を有するものである」(原判決を引用した部分)、さらに「X映画は、・・・・・・Y番組と比しはるかに高い芸術作品であることは明らかである」(本判決)と述べて、脚本の内容にまで踏み込んで評価し、脚本および映画における芸術性の違いが、表現上の本質的な特徴の感得可能性に影響を及ぼしうると解されるようなことまで述べている。 判決が、著作物の内容の評価に踏み込むこと自体問題があると思われるが、これでは、著作物の内容における芸術性の違いが、著作物の表現上の本質的特徴を感得させるための重要な要素となりうるといわんばかりであり、著作物の内容ではなく「表現」そのものを保護対象とする著作権法の解釈方法として妥当といえるか疑問である。 3.Y脚本およびY番組によるX映画の著作者人格権侵害(争点3および4) 判決は、Y脚本およびY番組によるX映画の著作者人格権侵害について、争点1および争点2についての判断(判旨1および判旨2)と同様の理由により、Y脚本およびY番組からは、X映画の表現上の本質的な特徴を感得できるものとは認められないとして、X映画について亡黒澤明が有する著作者人格権の侵害を否定した。 本判決が引用する原判決は、X映画とY番組はともに映画の著作物であるから、映像として表現されている各場面のカメラワーク、カット割り、音声等の画像特有の点をも対比するのが相当であるという見識を提示しながら、X映画は、その技法に優れ、高度の芸術性を有するものであるからという理由により、特定の場面の画像についてその映像上の技法・特徴を付加して対比を行うまでの必要は見受けられないと述べて、やはり結果的に、いくつかの場面において一定の共通点が認められるものの、X映画の表現上の本質的な特徴をY番組から感得することはできないとして、X映画についての亡黒澤明の著作者人格権の侵害を否定した。 前述したように、本件は本来ならばX映画とY番組との関係、すなわち映像表現における類似性について翻案権侵害の議論がなされるべき事案であると思われるが、Xらは、X映画について、著作者の遺族として著作権法116条1項にもとづいて著作者の死後における人格的利益の保護を主張しているにすぎず、映像表現の利用について翻案権侵害の成否に関する議論が尽くされたとはいえない。判決が述べるように、「映像として表現されている各場面のカメラワーク、カット割り、音声等の画像特有の点」についてこそ、表現上の本質的特徴を直接感得することができるか否かが議論されるべきであるが、これについての判断がおざなりなものとなってしまった。 また、判決は、アイデアの有機的結合による表現上の本質的特徴の感得可能性を否定する根拠の1つとして、ことさらX映画の高い芸術性について強調するが、翻案権侵害や同一性保持権侵害について判断する場合には、当該著作物の芸術性の有無についてとやかく議論する必要はないはずである。判決は、X映画が高い芸術性を有していることを強調することで、模倣されてもやむをえないという立場から判断しているというようなニュアンスを汲み取ることができる。芸術的に優れた作品に影響されて、そのアイデアや表現の一部を利用することは、必ずしも非難されるべきことではないであろうが、アイデアの利用にすぎない場合や、表現上の本質的特徴を直接感得することができない場合であっても、既存の著作物やその著作者を尊重することが必要であろう。 なお、Xが主張するように(〔事実の概要〕参照)、いくつかの文献において、X映画「七人の侍」における映像表現およびX脚本自体が、Y原作小説の吉川英治『宮本武蔵』からヒントを得て翻案したものであるとの指摘がある。『宮本武蔵』の「土匪来」の章および「征夷」の章(文庫版第6巻)において、野武士集団から村を守る戦いを描いた場面は、収穫を狙って数年おきに野武士集団が村を襲うこと、浪人が指導・激励して、未熟で戦意を失いがちな村人を武装させ、野武士集団に立ち向かわせること、浪人の授ける戦術は敵を分断して少数にした上で村人たちが大勢で取り囲んで襲うというものであること、村人たちは野武士集団の撃退に成功して村に平和が戻るという設定においてX脚本およびX映画と顕著な類似性が認められるとする。 判決は、その理由のなかではこのことについて触れていないが、Y番組およびY脚本とX映画およびX脚本の類似性、翻案権侵害および著作者人格権侵害について判断するにあたり、当然のことながらこのことを考慮して、結論を導き出したものと推量される。このことを含めて考えると、「表現上の本質的特徴を直接感得することはできない」という文言を濫用して、翻案権侵害を否定した本判決は、その理論構成や翻案権侵害の判断基準よりも結論だけに説得力があるような気がする。 |
歴史上の著名な人物を主人公として1年間にわたって毎週日曜夜に放映する連続ドラマである「大河ドラマ」を毎年製作して放映しているNHKは、平成15年の「大河ドラマ」として、吉川英治の著作に係る新聞連載小説「宮本武蔵」(Y原作小説)を原作とし、Y2執筆の脚本により「武蔵 MUSASHI」を製作し、平成15年に1年間にわたって放映した。 |
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Y脚本およびY番組のストーリーの概略は、次のようなものである。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の合戦において、新免武蔵(たけぞう)(市川新之助)および本位田又八(堤真一)の所属する部隊は、敗軍となる。惨めな我が身の状況を見るにつけ参戦を悔やむ又八は、残してきた許嫁お通(米倉涼子)に思いをはせる。そのころ、故郷・美作国宮本村では、又八の母・お杉(中村玉緒)とお通が又八の帰郷を待っていたが、お通は、村を訪れた禅僧・沢庵(渡瀬恒彦)に、武蔵の気持ちが分かると語る。一方、越前では、天才剣士・佐々木小次郎(松岡昌宏)が師の命で恋人の父を斬った上、出奔していた。武蔵と又八は、敗残兵として逃避行を続けるうちにお甲(かたせ梨乃)と朱実(内山理名)という母娘と出会う。お甲らは、その家を繰り返し襲う辻風典馬一党に脅えており、これを撃退するために、浪人を雇うことにし、浪人の技量をはかる試みなどを経て、武蔵および又八のほかリーダー格の内山半兵衛(西田敏行)はじめ数名の浪人を雇う。辻風一党の襲撃が始まり、浪人たちとの戦闘が行われる。半兵衛の指揮で一度は賊を撃退するが、夜襲に遭い、武蔵が親しみを感じていた半兵衛は、武蔵に「戦うことは生き抜くこと」と教えて討ち死にする。豪雨の中の死闘の末に典馬を倒した武蔵は、「俺は強い!」と絶叫する。 |
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映画「七人の侍」(X映画)は、黒澤明、橋本忍および小国英雄の3名がその脚本(X脚本)を共同執筆し、黒澤明が監督を務めて、昭和29年(1954年)に東宝株式会社が製作した劇場用長編映画(上映時間約3時間27分)である。 |
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東京地判平成16年12月24日〔「武蔵 MUSASHI」事件(第1審)〕判時1911号144頁。 |
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知財高判平成17年6月14日〔「武蔵 MUSASHI」事件(第2審)〕判時1911号138頁。なお、本件はXらによって上告されたが、上告棄却となっている(最決平成17年10月18日判例集不登載)。 |
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最判平成13年6月28日〔「北の波濤に唄う」事件〕民集55巻4号837頁、判時1754号144頁、判夕1066号220頁。 |
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翻案権侵害およびそれについての二次的著作物に関する文献として、小泉直樹「江差追分事件」著作権研究24号161頁(1997年)、同「二次的著作物について」半田正夫先生古稀記念論集『著作権法と民法の現代的課題』172頁(法学書院、2003年)参照。 |
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名古屋地判平成6年7月29日〔「春の波濤」事件〕判時1540号94頁、東京地判平成8年9月30日〔「北の波濤に唄う」事件〕判時1584号39頁、最判平成13年6月28日〔「北の波濤に唄う」事件〕民集55巻4号837頁、判時1754号144頁、判夕1066号220頁など。 |
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この最高裁判決は、結論として「既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案に当たらないと解するのが相当である」と判示して、翻案権侵害を否定した(最判平成13年6月28日〔「北の波濤に唄う」事件〕民集55巻4号837頁、判時1754号144頁、判夕1066号220頁)。 |
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橋本英史「著作権(複製権、翻案権)侵害の判断基準について(上、下)」判時1595号20頁、30頁以下参照。 |
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拙稿・三浦正広「著作権法におけるアイデアの保護−アイデア・表現二分論の批判的考察−」半田正夫先生古稀記念論集『著作権法と民法の現代的課題』88頁(法学書院、2003年)参照。 |
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このようにみてくると、著作物におけるアイデアと表現の関係を、これまでの通説的な見解にあえて当てはめるとするならば、著作物という表現形式のなかで、アイデアと連続する「アイデアの表現」が、一定の範囲で「内面的表現形式」を構成することになると考えられる。すなわち、「内面的表現形式」とは、著作物のなかに具体化されたアイデアの表現にほかならないともいえよう(前掲註(11)拙稿93頁参照)。 |
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ストーリー展開を伴なう著作物について翻案権侵害が争われた事例として、東京地判平成2年5月23日〔映画シナリオ「ザ・心臓」事件〕判時1404号114頁、東京地判平成5年8月30日〔「目覚め」事件(第1審)〕判時1571号107頁、東京地判平成6年3月23日〔「ぼくのスカート」事件〕判時1517号136頁、名古屋地判平成6年7月29日〔「春の波濤」事件〕判時1540号94頁、東京高判平成8年4月16日〔「目覚め」事件(第2審)〕判時1571号98頁、東京地判平成8年9月30日〔「北の波濤に唄う」事件(第1審)〕知的裁集28巻3号464頁、判時1584号39頁、判夕924号89頁、東京地判平成10年6月29日〔「先生、僕ですよ!」事件〕判時1667号137頁、東京高判平成11年3月30日〔「北の波濤に唄う」事件(第2審)〕民集55巻4号945頁、最判平成13年6月28日〔「北の波濤に唄う」事件〕民集55巻4号837頁、判時1754号144頁、判夕1066号220頁など参照。
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