発明 Vol.99 2002-8
判例評釈
原告の西瓜の写真と被告の西瓜の写真の共通点は
いずれも被写体の選択,配置上の工夫にすぎないとした
判決が変更され,請求が一部認容された事例
(東京高裁2001年6月21日判決(上告),判例時報1765号96頁)
野一色 勲
I 事実の概要

 原告Xは西瓜を並べた写真(X写真)を1986年7月に撮影した。X写真は同月訴外発行の「きょうの料理」に掲載され,さらに1992年11月発行の「黄建勲の旬菜果」に掲載された。
 被告Yは西瓜を並べた写真(Y写真)を1993年8月に撮影した。被告YはY写真をカタログ「シルエットin北海道」(Yカタログ)に掲載し発行し頒布した。Xは,Y写真はX写真の翻案権及び同一性保持権を侵害しているとしてY及びYに対して慰謝料支払いならびに謝罪広告の掲載を,Yに対しYカタログの発行等の差止め,回収,廃棄を請求した。
 東京地裁はX写真の著作物性を認めるものの「写真技術を応用して制作した作品については,被写体の選択,組合せ及び配置等が共通する時には,写真の性質上,同一ないし類似する印象を与える作品が生ずることになる。しかし,写真に創作性が付与されるゆえんは,被写体の独自性によってではなく,撮影や現像等における独自の工夫によって創作的な表現が生じ得ることによるものであるから,いずれもが写真の著作物である二つの作品が,類似するかどうかを検討するに当たっては,特段の事情のない限り,被写体の選択,組合せ及び配置が共通するか否かではなく,撮影時刻,露光,陰影の付け方,レンズの選択,シャッター速度の設定,現像の手法等において工夫を凝らしたことによる創造的な表現部分,すなわち本質的特徴部分が共通するか否かを考慮して,判断する必要があるというべきである。」と説示し,Y写真との共通点は被写体の類似によるものであり創作的表現の類似は認められないとしXの訴えを棄却した(東京地裁1999年12月15日判決判,例時報1699号145頁)。X控訴。


II 争点

 Y写真はX写真を翻案したものか。また,Y写真はX写真のXの同一性保持権を侵害しているか。
《1》 写真における被写体の同一ないし類似は,創作的表現の同一ないし類似たり得るか。
《2》 X写真とY写真の間に被写体の同一ないし類似が認められるか。
《3》 Y写真はX写真に依拠したものか。

III 判旨(請求一部認容)

 1 写真の著作物性
 「写真著作物において,例えば,景色,人物等,現存する物が被写体となっている場合の多くにおけるように,被写体自体に格別の独自性が認められないときは,創作的表現は,撮影や現像等における独自の工夫によってしか生じ得ないことになるから,写真著作物が類似するかどうかを検討するに当たっては,被写体に関する要素が共通するか否かはほとんどあるいは全く問題にならず,事実上,撮影時刻,露光,陰影の付け方,レンズの選択,シャッター速度の設定,現像の手法等において工夫を凝らしたことによる創造的な表現部分が共通するか否かのみを考慮して判断することになろう。しかしながら,被写体の決定自体について,すなわち,撮影の対象物の選択,組合せ,配置等において創作的な表現がなされ,それに著作権法上の保護に値する独自性が与えられることは,十分あり得ることであり,その場合には,被写体の決定自体における,創作的な表現部分に共通するところがあるか否かをも考慮しなければならないことは当然である。写真著作物における創作性は,最終的に当該写真として示されているものが何を有するかによって判断されるべきものであり,これを決めるのは,被写体とこれを撮影するに当たっての撮影時刻,露光,陰影の付け方,レンズの選択,シャッター速度の設定,現像の手法等における工夫の双方であり,その一方ではないことは,論ずるまでもないことだからである。
 X写真は,そこに表現されたものから明らかなとおり,屋内に撮影場所を選び,西瓜,籠,氷,青いグラデーション用紙等を組合せることにより,人為的に作り出された被写体であるから,被写体の決定自体に独自性を認める余地が十分認められるものである。したがって,撮影時刻,露光,陰影の付け方,レンズの選択,シャッター速度の設定,現像の手法等において工夫を凝らしたことによる創造的な表現部分についてのみならず,被写体の決定における創造的な表現部分についても,X写真にそのような部分が存在するか,存在するとして,そのような部分においてX写真とY写真が共通しているか否かをも検討しなければならないことになるものというべきである。」
 2 表現の対比
 「X写真とY写真とを対比すると,被写体の決定において,すなわち,素材の選択,組合せ及び配置において著しく似ていることが認められる。」
 3 依拠
 「X写真とY写真との上記類似性は,Y写真がX写真に依拠して作成されたものであることを強く推認させる事情となっているものというべきである。」
 「Yは,訴外Aの所持していた『黄建勲の旬菜果』を見ることが物理的に可能であったものであり,X写真に依拠し得る立場にいたものということができるのである。」
 「Yは,X写真に依拠してY写真を撮影したと認められ,かつ,Yは,X写真に依拠しない限り,到底,Y写真を撮影することができなかったものと認められる。」
 4 侵害行為
 「Y写真は,X写真の表現の一部を欠いているか,X写真を改悪したか,あるいは,X写真に些細な,格別に意味のない相違を付与したか,という程度のものにすぎないのであり,しかも,これらの相違点は,そこからY独自の思想又は感情を読み取ることができるようなものではない。前述したとおり,X写真は,作者であるXの思想又は感情が表れているものであるから,著作物性が認められるものであり,Y写真は,X写真に表現されたものの範囲内で,これをいわば粗雑に再製又は改変したにすぎないものというべきである。このような再製又は改変が著作権法上,違法なものであることは明らかというべきである。」
 5 同一性保持権侵害
 「Yは,X写真と類似するY写真を製作し,Yカタログに掲載したのであり,前述したとおり,Y写真がX写真と相違していることからすれば,Yは,X写真の表現を変更しあるいは一部切除してこれを改変したものであることが,明らかである。したがって,Yの行為は,著作者であるXの承諾又は著作権法の定める適用除外規定に該当する事由がない限り,X写真についてXが有する同一性保持権を侵害するものとなる(著作権法20条)。ところが,Yにつき,Xの承諾を得ているとも,著作権法の定める適用除外規定に該当する事由があるとも認められないから,Yの行為は,X写真についてXが有する同一性保持権を侵害するものである。」
 6 謝罪広告
 「Y写真は,Yカタログに掲載されたのみであり,Xが,社団法人日本広告写真家協会の著作権委員会に所属する写真家らと協議を重ねたうえ,本訴を請求したものであることが認められ,この事情の下では,判決によってXの名誉が回復されることになり,その他更に名誉を回復するための格別の処分を命ずる必要性はないものというべきである。」
 7 損害
 「Xは,出版用食品広告専門の写真家であり,独特の手法により,写真映像によって食材のおいしさ,みずみずしさ等を表すことに情熱を注ぎ,我が国のみならず米国でも高い評価を受けている写真家であることが認められる。そして,X写真も,Xの上記手法を反映した写真の一つであり,西瓜を主題(モチーフ)として盛夏の青空の下でのみずみずしい西瓜を演出した作品であったのである。X写真を,平凡な写真に再製又は改変されてしまったのであるから,Xは,自己の意に反するこのような再製又は改変によって,名誉感情を毀損され,精神的な損害を被ったものと認められる。」

IV 評釈

判決に反対。

 写真の著作物性(判旨1及び2)
 本判決は「撮影の対象物の選択,組合せ,配置等において創作的な表現がなされ,それに著作権法上の保護に値する独自性が与えられることは,十分あり得ること・・・・・・(判旨1)」とし,X写真の被写体の独自性に著作権法上の保護が与えられることになるので,その被写体の写真は創作的表現であると認めた。
 この点を原審判決は「・・・・・・写真に創作性が付与されるゆえんは,被写体の独自性によってではなく,撮影や現像等における独自の工夫によって創作的な表現が生じ得ることによるものである・・・・・・」とし,写真の創作性判断において被写体の選択,組合せ,配置は「特段の事情のない限り」考慮されないとし,特段の事情は論ぜられていない。原審判決はX写真とY写真の類似判断において被写体の選択,組合せ,配置の共通は創作的表現の類似たり得ないからY写真を非侵害とした。原審判決は被写体の独自性は写真に創作性を付与するものでないことを明言しているのであるから,もし「特段の事情」があるとすれば特定の選択,組合せ,配置により構成された被写体それ自体がXの著作物として認められる場合であろう。
 特定の選択,組合せ,配置により構成された被写体自体は眼に見えるものとしての表現であるが,本件ではX写真の被写体自体が著作物であるとする主張も見解も見られない。X写真の被写体自体が著作物性の要件を満たしているとは考えられないであろう。
 判決は「被写体の決定自体に著作権法上の保護に値する独自性が与えられる(判旨1)」と言うが,その「独自性」がいかなる概念であり何故著作権法上保護に値するのか明瞭でない。「独自性」の語義は,そのもののみのとか,他と違った特有のという意味であると思うが,著作権法の下で保護されるのは創作的表現(創作的表現は判例上の用語「表現形式上の本質的特徴」と同義である)である。本判決が「独自性」の用語により著作物の要件である創作的表現の意味を変容することを意図しているとは解されない。
 著作権法の下での創作の意味は,当該表現が著作者に由来したものであればよしとされている。その創作性の程度が少ないか豊富であるかは著作者の力量によるが,一方では著作物の性質によっても表現の多様性がどれほど許されるかということにより規制を受ける。創作性の少ない著作物の保護範囲は狭く,創作性の豊富な著作物の保護範囲は広くなる。著作物の保護の有無及びその広狭は表現の創作性に依存する。
 被写体の選択,組合せ,配置の工夫は写真の前段階の作業であり,この段階では写真としての表現は未だ作り出されていない。従って被写体の選択と準備,撮影方法や撮影手段の工夫と準備等はこの作業段階中において行われるから,それが独自なものであっても表現の前段階のものとして著作権法上は思想(アイデア)の範疇に入るものであり,保護の対象にならない(同旨:茶園成樹「写真の著作権・編集著作権の侵害の成否−商品カタログ事件−」著作権研究25,1998年,209頁;田村善之「著作権法概説」第2版有斐閣2001年96頁)。被写体はシャッターを切った後では写真上の表現と化す。写真の表現のすべてが保護されるのではなく創作的表現のみが保護される。被写体や撮影方法や撮影手段と直結した表現は,表現であっても創作的表現とはいえない。誰でも同一の被写体や撮影方法や撮影手段を自由に使用することが許されているのであるから,その被写体や方法や手段に直結して形成される表現には保護されるべき創作性は認められない。そのように直結した表現が著作権法上保護されることになれば,保護期間の終期まで長期間にわたって同一の被写体や方法や手段が自由に使用できなくなってしまう。
 写真における創作的表現は,被写体,撮影視角,構図,光,色彩,光沢,ピント,シャッタースピード等の選択とそれらの組合せいかん,さらにレンズ,カメラ,フィルム等の機材の選択,現像の手法の選択等の多様な要素の組合せとそれらの累積のなかで著作者の個性や人格が発揮され,それらが表現に反映されることで生まれてくる。写真の著作物における創作的表現は,被写体や被写体の独自性に直結した表現ではなく,全体的に感知される写真上の絶妙の表現において認められるものであろう。
 写真は被写体を全体として光学的機械的に記録するものであるから,写真全体の中の一部分に限って創作的表現を認めることは困難であろう。判例は創作的表現を「表現形式上の本質的特徴」と呼ぶ慣わしがあるので,ある特定の本質的特徴部分,例えば半分に切った西瓜の上に三角形に切った6切れの西瓜を傾斜させて1列に並べた配置といった類の表現上の特徴部分の存否が問われているかとも解されよう。写真の表現のある特別の一部分を創作的表現として指摘できる場合があるかもしれないが,そのような特別部分がなくても写真であるからむしろ全体としての創作的表現の存在が認められる場合のほうが多いであろう。特に写真は被写体の像を光学的機械的に固定し記録するものであるから,表現の創作性が看取されるのは全体的な表現においてということになろう。
 写真に創作的表現が認められる場合には写真は著作物とされ,著作権法の保護客体となる。著作権法10条1項は著作物の例示に「写真の著作物」を挙げることにより,このことを明確にしている。
 写生において,同一の対象を複数の画家が描いて類似の絵画になっても,その類似はアイデアの類似であり,絵画の創作的表現の類似ではない。写真の場合は「似るべくして似る表現」の部分が圧倒的に大きい。同一対象または類似の対象により規定される表現は,創作的表現ではない。そのような表現の類似は「似るべきものが似ている」のであるから著作権侵害を推定せしめるものではない。著作権侵害は創作的表現が「似るはずがないのに似ている」場合に推定される。
 何が創作的表現かを判断するに当たり写真の著作物と絵画の著作物とでは決定的な相違のあることを指摘しておきたい。
 写真の場合は,被写体の存在が不可欠である。写真はレンズを通し光学的機械的に被写体の実像を媒体上に固定するのであるから,写真の主要部分の表現はアイデアそのものの表現になる場合が多い。絵画の場合は,被写体の存在は不可欠ではない。同じ構図でも絵画表現は写真のように現実の物体と直結した関係がなく画家の脳細胞の働きに基づく。すべて絵筆を用いて表現される。絵画との対比でいえば,被写体はカメラを経由した限度において撮影者の脳細胞を経由していないのである。
 シャッターを切る前後でアイデアが表現と化すという写真の特性は,表現においてアイデアと表現の合一(merge)が認められる場合が多いということにつながる。アイデアと表現が合一(merge)した場合には,表現を保護すればアイデアも保護してしまうことになるので表現の著作物性は認められない。アイデアが新規かつ独自であるが故にそのアイデアを保護したい衝動に駆られたとしても,著作権法の下ではアイデアが保護されないのは明らかである。被写体自体が著作物でない限り被写体自体は著作権法の下ではアイデアの範疇に属する。シャッターを切った後では被写体は写真上の表現と化すのであるが,その表現はアイデアと直結した表現である限度において創作性は認められない。創作的表現の無い写真は著作物性を否定される。著作物性が認められる写真でも創作的表現が僅少ならば事実上は複製を禁ずる程度の保護しか与えられないであろう。
 かつて写真家により気球から撮影された真珠湾の米海軍艦艇の写真を見てその艦艇の漫画を描いた漫画家が写真の著作権を侵害しているか,という話題が報道されたことがある。この艦艇は写真の被写体である。被写体自体が独自なものであっても,その写真の著作物性は写真の創作的表現に依存する。被写体を記録し伝達するところに写真の有用性や特性がある。漫画を描くのに必要とされる艦艇の姿も風景も,写真が伝達するアイデアである。漫画家は写真によって得たアイデアを使用しているのであり,創作的表現を使用しているのではない。著作権法の保護客体は創作的表現であらねばならぬとする法理に従えば,写真を見て写真の被写体である米海軍艦艇や風景を漫画の絵に仕上げたとしても写真の著作権を侵害することにはならないであろう。
 絵を描く画家に対して写真ではなく現物を見て絵を描けという要求には,著作権法上の合理性がない。写真撮影の経済的コストに着目すれば,フリーライドは許せないという考え方もあろう。しかし著作権法は表現の創作に価値を置くのであるから,経済的コストへのフリーライドは著作権法の埒外である。創作性を奨励する著作権法からは,もう一度画家に現場に行って現物を見てから描かせることに合理性がない。
 被写体に直結した表現はその限りにおいて創作的表現たり得ない。
 本判決は被写体の独自性に直結する表現を創作的表現であるとして著作権法による保護を認めた(判旨1及び2)。独自性のある被写体の類似をもって創作的表現が類似するとする考え方は,被写体自体に著作物性を認めるに等しい。
 本件被写体が独自なものであろうと被写体自体に著作物性が認められないことは本件の当事者も裁判所も当然の前提にしていたはずである。
 本判決は自らの当然の前提に反する結論を自ら導いていることになる。

 類似性と依拠(判旨2及び3)
 判決はまず,Y写真のX写真との著しい類似(判旨2)からYの依拠を推認(判旨3)している。いかに類似していても,YがX写真を見る機会が無かったならば,依拠はあり得ない。類似が認められても依拠がなければ侵害にならない。米国判例では類似(substantial similarity)と接近(access)が区分され,訴訟経済上から類似の審査が先行するのが原則のようである。
 判決は,「・・・Yには,Y写真を撮影する前に,X写真に接する機会があったことが明らかである。(判旨3)」とし接近の事実を認定している。
 類似と接近の間接事実から依拠即ち侵害が推定されるが,この推定は独自制作の抗弁により覆し得る。
 Yは,この類似はありふれたものと反論し,接近を否認し,独自制作の抗弁を主張したがいずれも認められなかった。

 同一性保持権(判旨4,5及び7)
 判決は,Y写真について複製権侵害や翻案権侵害を論ずることなく同一性保持権侵害を認定している(判旨4及び5)。Y写真にX写真の創作的表現が残留していなければ,Y写真はX写真とは完全に別個の著作物であり著作権及び著作者人格権の侵害の問題は生じ得ない(「パロディ雪山写真事件」最高裁第三小法廷1980年3月28日判決,民集34巻3号244頁,判時967号45頁)。判決はY写真はX写真を翻案した二次的著作物であることを明言せず前提にしている。Y写真がX写真の二次的著作物でなければY写真における同一性保持権侵害は不存在である。
 同一性保持権侵害としての改変は,X写真の創作的表現部分に対してなされたか非創作的部分に対してなされたか,そのいずれであるかを問わない。
 「意」に反した改変という条文上の用語の「意」は,著作者の内心の主観的な「意」ではなく,客観的に忖度されることによって把握される。法は客観的なものとして探究される対象であるから,「意」は著作者の内心を尋ねることで解明されるものではなく,客観的な存在として把握され解明されなければならない。著作物には著作者の人格や個性が投影されている。その度合は著作物の種類により異なる。同一性保持権により保護されるべき「意」は著作物に投影された著作者の「意」である。著作物が改変されると著作物に投影されている著作者の人格や個性が損傷される場合がある。法はこれを阻止しなければならない。
 ベルヌ条約6条の2第1項で「著作者は,その財産的権利とは別個に,この権利が移転された後においても,著作物の創作者であることを主張する権利及び著作物の変更,切除その他の改変又は著作物に対するその他の侵害で自己の名誉又は声望を害するおそれのあるものに対して異議を申し立てる権利を保有する。」と規定している。
 著作権法20条1項では「著作者は,その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し,その意に反してこれらの変更,切除その他の改変を受けないものとする。」と規定している。
 ベルヌ条約では「自己の名誉又は声望を害するおそれのあるもの」と言い,著作権法では「意に反して」と言う。この両者は同じ基準を示していると解すべきである。この点について日本の著作権法の基準は,ベルヌ条約の基準を上回るように規定されており,著作者の同一性保持権をより高度に保護していると解する(例えば加戸守行発言「シンポジウム著作権法制と人格権」著作権研究23号1996年53頁)ならば,日本では財産権としての著作権に対する保護がそれだけ剥ぎ取られ,低められていることになる。これは不合理な解釈である。
 判決は,X写真の表現を変更しあるいは一部切除してこれを改変する行為は違法であり,X写真についてXが有する同一性保持権を侵害するとした(判旨4及び5)。
 表現上の無断改変イコール同一性保持権侵害ならば,翻案権侵害は常に同一性保持権侵害ということになってしまう。正当な権限の下で行われる翻案であっても,翻案は常に著作者からの同一性保持権の行使に脅かされることになってしまう。翻案権の許諾を受ける者や翻案権を譲り受ける者は,著作者から同一性保持権を主張されることがないように,常に著作者の同意も取り付けておかなければならないことになってしまう。これは著作権法が著作権の制限規定を設けながら著作者人格権の行使を制限していないという論理とも矛盾する。この矛盾は著作者が翻案権を保有している間は潜在的であるが,著作者と翻案権者が分離した場合に顕在化する。翻案権侵害であっても同一性保持権侵害にならない場合は十分あり得る(野一色勲「同一性保持権と財産権」紋谷先生還暦記念「知的財産権法の現代的課題」発明協会1998年641頁)。
 判決は,表現上の無断改変イコール同一性保持権侵害としたうえで,Xの名誉感情が毀損されたことを損害の段階で考慮して慰謝料支払いを命じている(判旨7)。
 自尊心や名誉感情が損なわれているか否かは,損害の認定で考慮するのみならず同一性保持権侵害成立の要件としても考慮すべきである。改変があっても自尊心や名誉感情が損なわれるに到っていないと客観的に判断される場合には,複製権侵害または翻案権侵害が成立するとしても同一性保持権侵害は成立しないと考えられるからである。

 謝罪広告(判旨6)
 判決はXの謝罪広告の請求を認めない理由として,本件の事情の下ではX勝訴の事実がXの関係者に流布することによりXの名誉が回復されることを指摘している(判旨6)。
 この指摘は謝罪広告命令の今後の在り方についてのヒントを提供している。
 著作権法115条は「著作者は・・・・・・著作者人格権を侵害した者に対し,・・・・・・著作者の名誉若しくは声望を回復するために適当な措置を請求する事が出来る。」と規定する。同条の下で謝罪文の広告が請求されるのは通例のことである。最高裁は「お詫びします」とか「謝罪します」という謝罪文の広告を判決で強制しても本心から謝罪することを命ずるものではないので,憲法19条(思想・良心の自由)に違反しないとする合憲判決(最高裁大法廷1956年7月4日,判決民集10巻7号785頁,判時80号3頁)を出している。これでは最高裁が国民に,偽善を勧めていることになる。
 憲法違反の疑いのある謝罪文言を強制するよりも勝訴の事実を広告せしめることをもって適当な措置とすべきである。



(のいしき いさお:阪南大学経済学部教授)