判例評釈 |
テレビドキュメンタリー番組のナレーションの一部が,江差追分に関する ノンフィクション「北の波濤に唄う」の翻案権侵害等とした 1・2審判決を覆し,翻案でないとした事例 |
(最高裁平成13年6月28日判決,判タ1066号220頁) |
大家 重夫 |
[事実の概要] |
原告Xは,江差追分に関するノンフィクション(「北の波濤に唄う」以下本件著作物という)の著作者である。また,江差追分のルーツについて触れた小説「ブダペスト悲歌」の著作者でもある。 |
[判 旨] |
(1) 言語の著作物の翻案(著作権法27条)とは,既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして,著作権法は,思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(同法2条1項1号参照),既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若くはアイデア,事実若くは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において,既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,翻案にあたらないと解するのが相当である。
(2) これを本件についてみると,本件プロローグと本件ナレーションとは,江差町がかつてニシン漁で栄え,そのにぎわいが「江戸にもない」といわれた豊かな町であったこと,現在ではニシンが去ってその面影はないこと,江差町では9月に江差追分全国大会が開かれ,年に1度,かつてのにぎわいを取り戻し,町は一気に活気づくことを表現している点及びその表現の順序において共通し,同一性がある。しかし,本件ナレーションが本件プロローグと同一性を有する部分のうち,江差町がかつてニシン漁で栄え,そのにぎわいが「江戸にもない」といわれた豊かな町であったこと,現在ではニシンが去ってその面影はないことは,一般的知見に属し,江差町の紹介としてありふれた事実であって,表現それ自体ではない部分において同一性が認められるにすぎない。また,現在の江差町が最もにぎわうのが江差追分全国大会の時であるとすることが江差町民の一般的な考え方とは異なるもので被上告人に特有の認識ないしアイデアであるとしても,その認識自体は著作権法上保護されるべき表現とはいえず,これと同じ認識を表明することが著作権法上禁止されるいわれはなく,本件ナレーションにおいて,上告人らが被上告人の認識と同じ認識の上に立って,江差町では9月に江差追分全国大会が開かれ,年に1度,かつてのにぎわいを取り戻し,町は一気に活気づくと表現したことにより,本件プロローグと表現それ自体でない部分において同一性が認められることになったにすぎず,具体的な表現においても両者は異なったものとなっている。さらに,本件ナレーションの運び方は,本件プロローグの骨格を成す事項の記述順序と同一ではあるが,その記述順序自体は独創的なものとはいい難く,表現上の創作性が認められない部分において同一性を有するにすぎない。しかも,上記各部分から構成される本件ナレーション全体をみても,その量は本件プロローグに比べて格段に短く,上告人らが創作した影像を背景として放送されたのであるから,これに接する者が本件プロローグの表現上の本質的な特徴を直接感得することはできないというべきである。 したがって,本件ナレーションは,本件著作物に依拠して創作されたものであるが,本件プロローグと同一性を有する部分は,表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分であって,本件ナレーションの表現から本件プロローグの表現上の本質的な特徴を直接感得することはできないから,本件プロローグを翻案したものとはいえない。 |
[評 釈] |
1.他の論点についての1審判決・2審判決
冒頭の[事実]の1審判決で述べたように,1審では3つの論点(請求)があった。《1》被告側の放送した番組内容が原告Xの小説の翻案権侵害か。《2》被告側の放送番組のナレーションが,原告Xのノンフィクションのプロローグの文章の翻案権侵害か,《3》原告Xの小説が江差追分のルーツは,ウラル地方だという仮説を述べていた。被告番組は,原告の小説に触れず,Y1が初めて唱えたものとして,放送し視聴者からのY2への手紙に対して,Y3が,Y1が20年来研究し,原告XもY1の推論をもとに書いたとの返事を手紙でした。この行為は,Xに対する名誉毀損である。 1審で,論点《1》について,原告の請求を認めなかった(注1)。 2審では,論点《2》,について,被告側の反論を認め,Xに対する名誉毀損を否定した(注2)。 そこで,3審では,論点《2》のみとなった。 2.最高裁における翻案権侵害の判断 (1) すなわち,最高裁では,被告・控訴人・上告人のテレビ番組「ほっかいどうスペシャル・遙かなるユーラシアの歌声――江差追分のルーツを求めて」のナレーションの文章(B)が原告・被控訴人・被上告人Xの本件著作物江差追分に関するノンフィクション「北の波濤に唄う」のプロローグの文章(A)の翻案権侵害かどうかのみが争点となった。Bの文章は,分量的にいえば約140字で,Aの文章は,その約6倍である。 1審は,原告のプロローグと被告のナレーションを比較し(本当は江差町が一番賑わうのは姥神神宮の夏祭りだが),原告ナレーションは,江差追分全国大会の時であるという原告特有の認識をし,いわば文学的独創の部分だが,被告ナレーションも「大会の3日間,町は一気に活気づ」くとし,ナレーションと同じ結論であることを指摘し,その他被告のナレーションが,「外面的な表現形式においても,その具体的な表現は少しずつ異なるものの,基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く,しかも」「ほぼ同じ趣旨の表現がほぼ同じ順序で記述されているものであり,この点からも両者の表現形式上の本質的な特徴の同一性を感得することができるのである。」とし,結論として,「本件ナレーションは,本件プロローグの基本的な骨子となる部分のみを同じ順序で表現しているものであり,外面的な表現形式においても,基本的にはほぼ類似の表現となっているところも多く,本件プロローグにおける表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができるものであって,本件プロローグを翻案したものであると認めるのが相当である。」とした。 2審も,「江差追分全国大会を『年に1度(中略)のにぎわい』と捉え,これを,江差町の過去の繁栄(すなわち,『かつてのにぎわい』)と対比して構成されている本件ナレーションの表現は,本件プロローグの江差追分全国大会に対する深い思いに基づく思想又は感情の創作的な表現を直ちに感知させるものであって,単なる客観的事実の説明といえないから,控訴人らの右主張も,採用」できないとした。 最高裁は,(1)言語の著作物の翻案について,「既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。」とし,「既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若くはアイデア,事実若くは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において,既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,翻案にあたらない」とした。 (2) これを本件にあてはめ,本件プロローグと本件ナレーションとは,江差町がかつてニシン漁で栄え,そのにぎわいが「江戸にもない」といわれた豊かな町であったこと,現在ではニシンが去ってその面影はないこと,……などの事実およびその表現の順序において共通し,同一性がある。 「しかし,本件ナレーションが本件プロローグと同一性を有する部分のうち,江差町がかつてニシン漁で栄え,そのにぎわいが『江戸にもない』といわれた豊かな町であったこと,現在ではニシンが去ってその面影はないことは,一般的知見に属し,江差町の紹介としてありふれた事実であって,表現それ自体ではない部分において同一性が認められるにすぎない。また,現在の江差町が最もにぎわうのが江差追分全国大会の時であるとすることが江差町民の一般的な考え方とは異なるもので被上告人に特有の認識ないしアイデアであるとしても,その認識自体は著作権法上保護されるべき表現とはいえず,これと同じ認識を表明することが著作権法上禁止されるいわれはなく,本件ナレーションにおいて,上告人らが被上告人の認識と同じ認識の上に立って,江差町では9月に江差追分全国大会が開かれ,年に1度,かつてのにぎわいを取り戻し,町は一気に活気づくと表現したことにより,本件プロローグと表現それ自体でない部分において同一性が認められることになったにすぎず,具体的な表現においても両者は異なったものとなっている。さらに,本件ナレーションの運び方は,本件プロローグの骨格を成す事項の記述順序と同一ではあるが,その記述順序自体は独創的なものとはいい難く,表現上の創作性が認められない部分において同一性を有するにすぎない。しかも,上記各部分から構成される本件ナレーション全体をみても,その量は本件プロローグに比べて格段に短く,上告人らが創作した影像を背景として放送されたのであるから,これに接する者が本件プロローグの表現上の本質的な特徴を直接感得することはできない」とし,「本件ナレーションは,本件著作物に依拠して創作されたものであるが,本件プロローグと同一性を有する部分は,表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分であって,本件ナレーションの表現から本件プロローグの表現上の本質的な特徴を直接感得することはできないから,本件プロローグを翻案したものとはいえない。」とした。 (3) 本件で,重要なことは,最高裁が言語の著作物の翻案について,「既存の著作物に依拠し,かつ,その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。」とし,「既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若くはアイデア,事実若くは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において,既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,翻案にあたらない」としたことである。 (ア) 最高裁がまず,言語の著作物の翻案について,「既存の著作物に依拠し,かつその表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ,具体的表現に修正,増減,変更等を加えて,新たに思想又は感情を創作的に表現することにより,これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。」としたことに意義がある本事件の1・2審の判決や多数の判例が採用していた直接感得説を採り,これが固まったことである(注3)。 (イ) 次に重要なことは,ただし,「既存の著作物に依拠して創作された著作物が,思想,感情若くはアイデア,事実若くは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において,既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には,翻案にあたらない」としたことである(注4)。最高裁は,Bのナレーションが,Aのプロローグと同一性があり,順序が同じで,Aに依拠していても「表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分」で,Aの表現上の本質的な特徴を直接感得できない,とした。 たしかに,コピライト488号19頁で島並良・助教授が指摘されるように,「保護されるべき創作的表現とそこから除外される事実やアイデアの区分が実は価値判断に満ちている」。 1審および2審は,Aのプロローグを事実を素材とした創作性のある著作物と捉え(あるいは,事実等を差し引かず一体のものとして創作性のあるものとして把握し),Bがその事実と創作性のある部分を取り込み,ひいては,BによりAの本質的部分を直接感得できると解した。 しかし,私もまた,最高裁と同じく,Bが取り込んだ部分は,創作性のない部分であり,いわば公有物で(こういう部分をAが専有することは不当と考える),また,Bにより,Aを直接感得できないと考える。 (ウ) 最高裁は,上記各部分から構成される本件ナレーション全体をみても,その量は本件プロローグに比べて格段に短く,上告人らが創作した影像を背景として放送されたのであるから,これに接する者が本件プロローグの表現上の本質的な特徴を直接感得することはできない,とした。この点も,賛成である。 まず,Bのナレーションは,Aが非常に短縮されており,わたくしは,そこでAの著作物の著作権が及ばなくなっているのでないかとも考える。 そして,前掲島並助教授が指摘されているが,個々の作品要素を切り離して判断せず,この両作品を全体的に比較している。ただし,“思想,感情,アイデア,事実,事件など表現それ自体でない部分”は,切り離して判断していると思う。島並助教授は,《1》既存著作物中に占める被模倣要素の割合,Bの分量の少ないこと,《2》新著作物中に占める模倣要素の位置づけ――背景に影像が付加されていること,に最高裁が言及しているという。 (エ) 本判決では,文章の要約文について,原文著作者の翻案権がどう及ぶかの直接の言及がなかったが,本件のような事例――観光案内書などに多い――についての判決で,実際的な事例的意義があると考える(注5)。 (4) なお,1審裁判に関与されていた橋本英史判事は,次のように述べ1審判決を擁護されていた。 「原告の著作物の表現形式と被告の作品の表現形式と対比して共通するものが,著作権として保護される創作的な表現形式でなく,アイデア等そのものにすぎないのかを検討することが必要になることがある。」「共通する表現形式から,アイデア等そのものを抽出する(差し引く)と残った表現形式には創作性は認められないかどうかを確認するという検討方法をとる場合には,前述したように,微視的に,例えば個々の用語,一文など細切れに分離してこの評価を加えていくと,結局各々のすべてがアイデア等(ないしアイデア等とありふれた表現)に属してしまい,その表現形式上の創作性がすべて否定され,正当な創作性の評価を見誤るおそれがあることに注意すべきであり,ここでも総合的に創作性を評価することが重要となる」とされる(判時1596号15頁)。 次いで,次のようにいわれる点は,不当に著作権者の翻案権を拡大するものとして,筆者には納得がいかないものであった。 「原告の著作物の創作的な表現形式と被告の作品の表現形式とを対比する場合に,思想,感情等についても対比して考察する必要があるし,著作物の特性に応じ,当該著作物の表現形式の創作的価値を理解するために,これと一体をなす思想,感情等の独創性等その個性(創作性)の程度も評価することが重要となることがある。」(判時1596号15頁2段)とされる。あるいは,「著作権侵害の判断において,原告の創作性が認められる表現形式から,その思想,感情,事実等や公有の文化的所産は保護の対象とならないことを理由として,これらを分離して評価の対象外に置いて,残余の表現形式とを対比するという手法は,原告の創作的な表現形式を空虚なものとして評価するものであって正当ではなく,右のとおり,これらを総合して評価すべきである。」(判時1596号15頁3段)。さらに,江差追分事件1審判決での小説部分の判示において,「文芸作品の全編に流れる創作的なテーマについては,それが文芸作品における最も重要な生命というべきものであり,これを翻案の判断において当然に考慮すべきであるにしても,文芸作品におけるテーマとは同作品における基本的な筋,構成によって表現されているものである以上,基本的な筋,構成と密接な関係をもって存在しているものであるから,基本的な筋,構成と一体として翻案の判断をすべきである。」とされている点について,以上の自説(総合的に評価すべきであるというもの)と「その表現形式と一体をなす思想,事実等や公有の文化的所産について切り離すことなく,総合して評価すべきであるという右の私見と同じ趣旨であると思われる」といわれる(判事1596号15頁4段から16頁)。 最高裁判決は,たしかに両作品を全体的に比較していたが,両者共通の,問題の該当部分については,表現上の創作性がないとした。すなわちその該当部分については,「切り離しが行われた」のである。 橋本説は,事実など創作性のないものについても,それらを含んで全体的に評価すべしというのであるから,翻案権侵害がたやすく認めやすい結果になりがちであったと考える。 (5) 1・2審では,時系列的な出来事の叙述の順序が重視され,これが翻案権侵害を認めさせた一因でもあった。最高裁判決は,「本件ナレーションの運び方は,本件プロローグの骨格を成す事項の記述順序と同一ではあるが,その記述順序自体は独創的なものとはいい難く」として,順序自体に創作性(独創性がないとは創作性のないことをいうのであろう)がないとした。誰が書くとしても大抵そのように書く,ありふれた順序で,妥当である。 (6) 私は,翻案権侵害とは,原作品の表現形式上の本質的特徴を問題の著作物から直接感得できるかどうかであると考えることについて,多数説に賛成であるが,それは言い換えれば,問題の著作物を見て,直ちに,原作品の創作的部分が残存していると想起するかどうか,既視感がある,と感じるかどうかだと考える。 この江差追分事件では,被告のナレーションは,原告のプロローグの6分の1の分量の骨子の部分の利用であり,創作性のある,文学的表現の箇所の利用はなく,被告のナレーションを読んでも,直ちに原告のプロローグを想起することは難しかった。被告を勝訴にすべき事案であった。その意味で,最高裁判決は妥当と考える(注6)。 (7) 歴史的な事実を創作的に表現したものについては,著作権があることを注意しなければならない。 「壁の世紀」事件(東京地裁平成10年11月27日判決,判時1675号119頁)は,「歴史的事実に関して叙述された作品が,思想又は感情の創作的に表現したものではないとはいえない」とする。これらのことと,本判決は関係ない。 |
小泉直樹教授は,被告番組の視聴者の中には「原告のウラル源流説が無断で利用されている旨感得した者が複数存在し」たことを指摘し,論点1の原告小説と被告番組の翻案権侵害について,「翻案権侵害の最終的基準として,本質的特徴の直接感得可能性に依拠する本判決が,本件小説の番組との比較において,ウラル起源説の細部の相違だけをもって非類似の結論を下し,他ならぬ視聴者(原告読者)の認識を考慮していない様に見受けられるのは,若干腑に落ちない。」とされていた(著作権研究24号172頁)。論点1も,原告を支持されていたのであろうか。私は,原告の本件小説の表現形式上の本質的な特徴を被告の番組から直接感得できず,翻案権侵害を認めなかったことについて判決を支持する。小説の中にウラル源流説というアイデアが示されていたこと,放送ではハンガリー,バシキール,モンゴル,江差町を撮影し,ウラルも出しているが,表現形式も筋の展開も,構成も異なる両者を翻案権侵害に問うのは難しいと思う。「ウラル源流説」というアイデアのプライオリティないし先行権は保護されない(久留米大学法学34号53頁)。 |
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この点について,小泉直樹教授は次のように指摘されていた。「本件原告の独創は,江差が栄えるのが何月であるといった点にはなく,むしろウラル源流説にあるのもまた確かである。被告番組はこの点に改変を加え,かつ,プライオリティが大学教授にあるかのような虚偽の回答まで行っており,きわめて悪質といわざるをえない。」(著作権研究24号172頁)。私は,この大学教授(学長)が,被告側に対し,自分は民族音楽の専門家で,江差追分のルーツにも関心のあること,原告Xは自分の所に教えを乞いに来た人物で,資料を提供したり,ハンガリーの専門家や外国留学中の娘に紹介したりしていることを被告側に述べたこと,原告Xのクレームについて心配しなくてもよいといい,これに従って,被告Y2からの視聴者宛手紙が出されたと考える。Y1学長の推論を基に構成し,原告XもY1の推論を基に小説を書いたと言う被告Y2の視聴者あての手紙は,被告側の当事者にとって,真実であり,真実と信ずることについて,相当な事由があり,これが公共の利害に関する事実で,専ら公益目的のための公共情報であるとすれば,違法性はないと解していた(久留米大学法学34号84頁)。 2審判決は,被控訴人・原告Xが社会的評価を得ていても追分節ウラル源流説の提唱者としての評価ではなく,追分節の起源はユーラシア大陸の深奥部に求めることができることを初めて小説の形で提唱した者としての評価であるから,控訴人Y3の返書送付行為は名誉を侵害する違法行為ではない,という構成である。 小泉教授は,1審判決で,研究者であるY1について,判旨で外部の者として位置づけ,認定事実でアドバイザーとして終始関与し,とあり主張責任が尽くされていないと指摘されているが(前掲172頁),この点は私も小泉教授に賛成である(久留米大学法学前掲84頁)。 |
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著作物の要素を「内容(思想,アイデア)」と「表現」に分け,この表現は「外面形式」(著作者の思想を文字や色など他人に知覚されうる媒介物で客観的存在としたもの)と「内面形式」(外面形式に対応した著者の内心の一定の思想の体系,基本的な筋,仕組み,主たる構成)からなるとして,外面形式の利用が「複製」で,内面形式の利用が「翻案」とする考え方がある。加戸守行「著作権法逐条講義[3訂新版]」199頁。春の波濤事件の名古屋地裁平成6年7月29日判決(判時1540号94頁),名古屋高裁判決(平成9年5月15日判決判タ971号234頁)。内面形式と著作権保護の対象外の内容との区別の困難,内容とされる部分あるいは,内面形式とされる部分にも表現があるのではないか,などの理由で,直接感得説をとる判例学説が多い。大家重夫「大地の子事件判例評釈」判時1761号197頁参照。 直接感得説をとる判例として,江差追分事件1・2・3審判決以外に,次のものがある。 ぼくのスカート事件(東京地裁平成6年3月23日判決判時1517号136頁) 地獄のタクシー事件(東京地裁平成10年6月29日判決判時1667号137頁) 血液型事件(東京地裁平成10年10月30日判決判時1674号132頁) 妻たちはガラスの靴を脱ぐ事件(1)(東京地裁平成5年8月30日判決知的裁集25巻2号310頁) 妻たちはガラスの靴を脱ぐ事件(2)(東京高裁平成8年4月16日判決判時1571号98頁) アンコウ事件(京都地裁平成7年10月19日判決知的裁集27巻4号721頁) SMAP大研究事件(東京地裁平成10年10月29日判決知的裁集30巻4号813頁) なお,心臓移植事件(東京地裁平成2年5月23日判決無体集22巻2号323頁),「樹林」事件(東京地裁平成2年4月27日判決判時1364号95頁)も翻案権侵害を認めているが,「直接感得」の言葉はない。 |
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この指摘は正しい。この判断によって,日経新聞記事要約翻案事件(東京地裁平成6年2月18日判決知的裁集26巻1号114頁)の再吟味が必要となるかもしれない。日経新聞記事要約翻案事件では「要約とは,これに接する者に,原著作物を読まなくても原著作物に表現された思想,感情の主要な部分を認識させる内容を有しているものである。そのことは,原著作物が事実を報道した記事であっても,それが,著作物といえるものである限り同様である。」。この事件は,被告が原告の記事のみから採っていたことから原告勝訴もやむをえないと考えられ,2紙3紙から,記事を採れば,侵害にならない事件であったと考える。 |
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要約文と翻案権侵害の事例として次のものがある。
前掲,日経新聞記事要約翻案事件(東京地裁平成6年2月18日判決知的裁集26巻1号114頁,判時1486号110頁)(翻案である)。 血液型事件(東京地裁平成10年10月30日判決判時1674号132頁)(翻案である) |
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田村善之「著作権法概説」(有斐閣・1988年9月)73頁は,1審判決が,「その共通性を理由として侵害を肯定したことに対しては,根本的な疑問を覚える。」とされ,「この程度の順序が似ているだけで,著作権処理を強要したり,侵害に問うのでは,創作活動に著しい支障を来すであろう。(今後,原告のプロローグを読んだことがきっかけで,実際に江差追分に関して同様の感想を持った人間は,いったいどのような表現でそのアイデアを書き表したらよいのか,筆者には見当がつかない)」と適切な批評をされていた。 なお,同書[第2版](2001年11月)の該当頁77頁には,この1審批評は掲載されていない。 |