判例評釈 |
勤務規則に基づき支払われた 職務発明の対価につき 不足額の支払いが命じられた事例 |
〔東京高判平成13.5.22平成11(ネ)3208号,判例時報1753号23頁〕 |
渋谷 達紀 |
〔事実の概要〕 |
光学機械の製造販売を業とするY会社(被告,被控訴人兼控訴人)の従業員X(原告,控訴人兼被控訴人)は,Y会社に在職中の昭和52年に,コンパクトディスクのピックアップ装置に関する職務発明(本件発明)をした。 |
〔判 旨〕 |
XとY会社の控訴をいずれも棄却。
1. Y規定の性質について (1)「使用者等は,職務発明に係る特許権等の承継等に関しては, 〔特許法35条3項の〕『勤務規則その他の定』により,一方的に定めることができるものの, 『相当の対価』の額についてまでこれにより一方的に定めることはできないものと解するのが相当である」。そのことは,同項の「構文上明らか」であり,また,相当対価の具体的な額を支払義務者である使用者等が一方的に定めうるものとすれば,それは「法律上,異様な状態」というべきであり,使用者等と従業者等との間の利害を合理的に調整しようとしている同条の「立法趣旨」に反することにもなるからである。また,同条の「立法趣旨に照らせば,特許法35条3項,4項を強行規定と解すべきことも,当然」というべきである。したがって,Y規定により算出された額が特許法35条3項および同4項にいう相当の対価に足りないと認められる場合には,「従業者等が対価請求権を有効に放棄するなど,特段の事情がない限り,従業者等は・・・・・・使用者等の算出した額に拘束されることなく,同項による『相当な対価』を使用者等に請求することができる」。 (2)「特許法35条3項,4項が強行法規であることに照らせば,〔Xが規程遵守の誓約書をY会社に提出したことによって〕個々の職務発明についての対価の額につき何らかの合意がなされたとか,〔Xが〕対価請求権を放棄したものということができないことは明らか」であり,「XがY規定による報償金を数回にわたり異議なく受領したとの事実自体では,Xがその余の対価の請求権を放棄する意思を表示したとまでは認めることができず,上記事実によって放棄の意思が表示されたとするためには,そのような評価を許す根拠となる特別の事情が必要であるというべきであるのに,同事情に該当すべき事実は・・・・・・認めることができない」。 2. 相当の対価について 「本件発明が『諸隅発明』の利用発明であること,各社との交渉では諸隅発明が中心的な交渉の対象となり,本件特許及び前記分割特許には重きが置かれていなかったこと,ソニーは諸隅特許の存続期間満了後は,実施料を支払っていないこと,・・・・・・諸隅発明がすべての製品に用いられていること,本件特許及び前記分割特許・・・・・・には無効事由が存在する蓋然性が極めて高いこと,当初出願の発明のままでは,各社のピックアップ装置がこれを実施していると評価することができないこと等の諸点を総合すると,本件発明によりY会社が受けるべき利益額を〔CD装置の国内総生産額を基礎とすることなく〕5000万円とした原審の認定には合理性があるというべきである(民事訴訟法248条,特許法105条の3参照)」 3. Y会社の貢献度について 「本件特許を本件発明について受けた特許でないとすることはできないものの,Xの提案内容が,Y会社の特許担当者を中心とした提案で大幅に変更されたものであること,・・・・・・当初出願の内容では,各社のピックアップ装置がこれを実施しているとはいえず,上記変更の結果各社のピックアップ装置の一部がこれを実施していると評価できる内容になったこと,本件発明がXの担当分野と密接な関係を有するものであること・・・・・・等の事情を考慮すると,本件発明がなされるについてY会社が使用者として貢献した程度は95パーセントであるとした原判決の評価には合理性があるというべきである(民事訴訟法248条,特許法105条の3参照)」 4. 消滅時効の成否について 「Xに対し工業所有権収入取得時報償が支払われた平成4年10月1日までは,算定の基礎となる工業所有権収入は必ずしも明らかでなく,XがY会社からいくらの報償額が受け取れるかが不確定であったということができるから,同日までは,Xが相当の対価の請求権を行使することは期待し得ない状況であったというべきであり,同日までは消滅時効は進行しないと解するのが相当である」 |
〔評 釈〕 |
判旨賛成。
1. Y規定の性質について (1) 特許法35条は,職務発明については,発明の完成後だけでなく,完成前に,特許を受ける権利(特許権を含む)を使用者に承継(専用実施権の設定を含む)させることを従業者に約束させてもよく,その契約の形式も,個別契約に限ることなく,いわゆる附合契約である勤務規則などによってもよいとする立場をとり,承継契約の締結時とその形式につき(専用実施権の範囲や設定期間についても同様),契約自由の原則を妥当させているが(同条2項の反対解釈),承継の対価に関しては,従業者の保護のために,契約の自由を制限して,従業者は相当の対価の支払いを受ける権利を有するとしている(同条3項)。そして,相当の対価の額を算定するには,発明がされるについて使用者が貢献した程度を考慮するほか,従業者の発明により使用者が受けるべき利益の額を考慮すべきものとして,算定の基準を法定している(同条4項)。これに対して,職務発明以外の発明の場合は,この関係を逆転させ,契約の締結時については,従業者の保護のために,承継契約の事前締結を許さないが(同条2項),対価の支払いについては,契約自由の原則を妥当させるという立場をとっている(同条3項の反対解釈)。 同条は,このようにして,使用者と従業者との契約関係に介入することにより,主として従業者保護の見地から両者の利害を調整するとともに,研究開発に対する使用者の投資意欲を阻喪させないようにしているものといえる。かりに同条に基づき従業員に対して与えられている相当対価請求権を当事者の合意によって排除したり,対価の額を制限したりすることができるとするならば,同条の法目的は達成されないことになろう。したがって,同条は,労働政策と技術政策の調和を図った強行規定とみるべきである。本件の場合,Y規定により算出された対価の額が相当の対価に満たないのであれば,その不足額をXが請求しうることは,当然というべきである。 不足額請求の問題と関連して,不十分な対価やその算定方式を定めた権利承継契約については,権利の承継それ自体を争うことができるのではないか,むしろ,そのような争い方をすることだけが法的に可能なのではないか,という問題がある。一般論としては,権利の承継を目的とする双務契約において,対価の支払いに関する条項が無効であれば,契約を構成する要素の1つにつき合意を欠くことになるから,契約の効力も生じないものと考えられる。しかし,特許法35条の場合は,単に対価の額は相当でなければならないと定めているわけではなく,従業者に対して,法の規定に基づき,相当対価請求権を与えている。すなわち,同条は,権利承継が無償であることを許さず,また,権利承継が有償であっても,対価の額が不相当であるときは,その額を法に基づき,相当な額に引き上げ,その額の支払いを求めうる請求権を従業者に与えている。同条は,このようにして,権利の承継につき有効な合意がなされている限り,使用者も,また従業者自身も,相当対価請求権の成立を否定することはできないものとしている。したがって,従業者としても,権利の承継につき合意をした以上は,対価の不相当性を理由に権利承継の無効を主張することはできず,本件におけるように,対価の不足額を請求するほかはないものと思われる。 なお,特許法35条は,職務発明につき特許を受ける権利を使用者が承継する契約の形式は問わないことにしている。個別契約だけでなく,勤務規則などの附合契約ないしは約款によってもよく,通常は,この形式がとられる。判旨は,このことに関連して,特許を受ける権利の承継については,勤務規則などにより,使用者が「一方的に定めることができる」と述べているが,従業者の同意を抜きに,これを「一方的に」定めることができるかどうかについては,議論のあるところである。 私法の分野では,附合契約や約款といえども,それは契約であるから,その内容につき当事者の合意があったとみられる事情がなければ,拘束力は生じないと解するのが近時の通説といえよう(石田喜久夫「わが国における約款論の一斑」磯村還暦記念・市民法学の形成と展開<下>112頁・115頁参照)。どのような事情があれば合意ありといえるかについては,当事者の力関係が著しく異なっていたり(石田穣・民法V<契約法>18頁),契約条項が相手方の期待に反するものであるときは(山下友信「普通保険約款論<五>」法学協会雑誌97巻3号344頁),それらの程度に応じて,実質的に契約内容の説明・開示がなされたかどうかを問題とする見解が有力となっているようである(石田喜久夫・前掲115頁以下参照)。 労働法の分野では,就業規則所定の労働条件が合理的なものであり(秋北バス判決=最大判昭和43.12.25民集22巻13号3459頁),その内容を労働者に周知させる措置がとられていれば(東京地判平成10.9.25判時1664号145頁,東京高判平成12.8.23判時1730号152頁など),就業規則は,いわゆる法的規範性を獲得するといってよく,個々の労働者は,その適用を拒むことができないと解されている。私法の分野における解釈よりも,労働者に対してやや厳しい解釈がとられているといえようか。事案は,定年制の導入や,労働者に給付した留学費用の返還請求に関するものである。 思うに,就業規則にも様々なものがあろう。 たとえば,違法意識が相対的に高く労務管理の行き届いた大企業のもの,そうではない中小企業のもの,従業者数の多い企業のもの,そうではない企業のもの,従業者全員に適用があるもの,本件のY規定のように従業者の一部に適用があるものなどがあり,これらをステレオタイプ的にとらえたのでは,結論を誤るおそれなしとしない。ごく一般的にいうならば,企業規模が小さく,従業者数が少なく,規則の適用対象が従業者の一部である事例の中には,本来は個別契約によることが可能であり,ふさわしくもあるのに,就業規則の形式をとっているものがありうるのではなかろうか。そのような事例においては,使用者は,特許を受ける権利の承継につき,これを「一方的に」定めることができるわけではないというべきである。「一方的に」定めたとしても,それは事実上の社会規範性は持ちえても,法的規範性は有しないものと思われる。裁判所としても,それらの事例については,事案を個別契約のそれに近いものとして扱い,より精細に合意の成否を認定する必要があると思われる。 (2) 本件において,Xは,Y会社の諸規程を遵守する旨の誓約書をY会社に提出している。また,Y規定による報償金を数回にわたり異議なくXは受け取っている。これらの行為は,使用者の無言の圧力の下に,あるいは,後日対価の額につき使用者との間に紛争が生ずることを予期することなくなされるのが通例といえようが,紛争が生じた場合は,従業者にとって最大の弱点となる。したがって,これらの事実に対する評価をどうするかということは,判決の結論を左右する重要問題といえる。 判旨は,特許法35条が強行規定であることに照らすと,誓約書提出の事実によっては,Xが対価の額につき同意したとか,対価請求権を放棄したということはできないとしている。また,特別の事情がない限り,報償金を受け取ったという事実だけでは,Xがその余の対価請求権を放棄する意思を表示したということはできないとしている。 思うに,誓約書提出の時点においては,Xが発明を創作するかどうか,どのような種類の発明をするかなど,一切が未定である。そのような状況下において対価請求権を放棄することは,強行規定により与えられている抽象的な対価請求権を放棄するに等しく,法的には不可能というべきであろう。それはあたかも,株主が配当額の確定した利益配当請求権を放棄することはできても,株主権としての抽象的な利益配当請求権については,これを放棄することができないのと同じことである。また,その時点においては,対価の額も当然未定であるから,Xは,その額について同意することができるわけもない。なお,対価請求権の放棄ではなく,不行使を誓約したのならどうかという問題があるが,放棄も不行使も,従業者が対価を請求することができなくなるという効果は共通するから,従業者が放棄と不行使の誓約のいずれを行ったかによって,解釈を違えるべきではない。問題の重要性に照らすと,判旨が述べるところは,やや簡略にすぎるが,その結論は正しい。 これに対して,不足額請求権は,具体的請求権であるから,その放棄は,法的には可能であろう。不行使の誓約も可能である。しかし,判旨もいうように,報償金受け取りの事実から,不足額請求権の放棄や不行使の意思を推認することは無理であろう。従業者は,対価の全部ではなく,相当の対価の一部を受け取るつもりであったかもしれないからである。放棄や請求権不行使の誓約が有効であるためには,その旨のXの自発的かつ積極的な意思表示ないしはこれと同視しうる事実の存在が必要と思われる。 とくに問題となりうるのは,外形的には従業者が自発的に請求権を放棄したように見えても,その背後に,使用者の明示または黙示の要請に応じて放棄の意思表示をしたと認められる事情が存する場合である。使用者は,従業員に対して書面の作成を求め,証拠を残そうとするであろう。このような場合は,従業者と使用者との間に,請求権の放棄を目的とする合意ないしは契約があったといえるが,そのような合意は,特別の事情がない限り,強行規定ないしは公序良俗に反するものとして無効であり,それゆえ請求権の放棄はなかったと解すべきである。ただし,(1)従業者と使用者の間に,契約当事者一般の間に存すべき自由な意思表示を可能にする事情が存する場合であって,(2)合意内容が合理的なものである場合は,請求権放棄の合意は有効と解してよいであろう。たとえば,合意時点において使用者が開示した必要かつ十分な情報に基づき,使用者と従業者が公平に共有するに至った認識や予見に照らして,既払いの報賞金の額や,これを算定するために用いられた基準が合理的なものであったと認められる場合は,たとえ既払い額が法定の「相当の対価」に多少不足していることが後日判明したとしても,従業者による請求権放棄の合意は有効と解すべきであろう。もっとも,法定された「相当の対価」に比して既払い額が客観的に過小であったことが判明したときは,合意内容が実は合理的ではなかったことになるから,不足額請求権の放棄はなかったものと解すべきである。なお,いうまでもないことであるが,従業者が不足額支払い請求の訴訟を提起して勝訴判決を受けたときは,その後なお,追加払いを受けた金額では過小と感じさせる事情が生じたとしても,再度の不足額支払い請求は,確定判決の既判力(民事訴訟法114条)によって遮断される。これは,特許法の解釈の問題ではなく,民事訴訟制度の問題である。 2. 相当の対価について Xが支払いを受ける対価は,特許法35条3項により,その額が相当であることが法定され,その算定に当たっては,同35条4項により,その発明により使用者が受けるべき利益の額を考慮すべきことが法定されている。 特許法35条4項にいう使用者が受けるべき利益とは,使用者は従業者から権利を承継しなくても,法律上当然に無償の通常実施権を有することに鑑み,発明の実施により得られる利益ではなく,発明の独占により得られる利益を指すものと解されている。発明の独占により得られる利益には,使用者自身が発明を自家実施している場合は,それによる超過利潤,発明の実施を他社に許している場合は,実施料収入(発明を譲渡した場合には,その代金)ということになる。自家実施のほかに実施許諾もしている場合は,そのような条件下において使用者が得る超過利潤と実施料収入の両者を合算したものをいうことになろう。 なお,自家実施も実施許諾もなく,発明がまったく不実施の場合にも,使用者は発明の独占による利益を得ることができよう。その発明を他社が実施したならば,使用者が逸失するであろう利益がそれに当たる。 使用者が発明の実施を他社に許諾していた事案については,その実施料収入をもって,使用者が受けるべき利益とみるべきことを示唆した事例(東扇コンクリート判決=東京地判昭和58.9.28判時1088号132頁)がある。事案は,会社の職務発明規程に基づき,退職役員が実績補償金の支払いを求めたというものである。判旨は,会社がこれまでに得た実施料総額から,発明がされるについて会社が貢献した額を控除することにより,実績補償金の額を算定した。 その他の判例は,これまでのところ,すべて自家実施に関する事案である。したがって,使用者の超過利潤を算定する必要があるが,これを直接算定することが困難であったり,算定結果に多少なりとも客観性を与えたいと考えるためであろうか,使用者が発明を他社にライセンスしたものと仮定して,超過利潤の額をその実施料収入に置き換えて評価するという方法がとられている。ただし,東京地裁と大阪地裁・高裁とでは,異なった考え方が採用されている。 東京地裁の判例は,使用者自身が自家実施をする期間だけ他社にライセンスを与えたものと仮定して,その期間中における使用者の売上高に基づき,仮定されたライセンス期間中における他社の売上高を推認したうえ,その推認された他社の売上高に実施料率を乗ずるという手法により,他社から得られる想定実施料収入の額を算定してきた。他社の売上高については,使用者のそれと同額と推認した事例(日本金属加工判決=東京地判昭和58.12.23判時1104号120頁)もあれば,それより少ない額と推認した事例(カネシン判決=東京地判平成4.9.30判時1433号129頁)もある。使用者の自家実施期間としては,実際の実施期間を採用した事例(前掲日本金属加工判決)もあれば,想定される実施期間を採用した事例(前掲カネシン判決)もある。 なお,大阪地裁の判例にも,古い事例ではあるが,使用者は発明を自家実施することにより,発明が他社のものであったなら支払わなければならなかったはずの実施料相当の金額を節約することができると考え,その節約額をもって,発明の独占により使用者が受けるべき利益とみなす旨を述べたもの(ミノルタカメラ判決=大阪地判昭和59.4.26無体裁集16巻1号282頁)がある。この考え方によれば,使用者の総販売数量に対応する仮定された実施料額が発明の独占により使用者が得る利益ということになろうから,その算定結果は,前述した東京地裁のものと共通する性格を有する。 これに対して,近時の大阪地裁・高裁の判例は,使用者が発明の自家実施により得た売上高の中には,従業者から承継した発明を独占的に実施したことに起因する部分のほかに,使用者の企業努力に負う部分(特許法35条1項所定の通常実施権に基づく部分)が含まれているはずだから,他社がライセンスを受けたと仮定した場合,実施料率を乗ずべき他社の売上高は,使用者の総売上高とみるべきではなく,そこから使用者の企業努力に負う部分を控除した売上高であると解釈している(象印マホービン判決=大阪地判平成6.4.28判時1542号115頁,ゴーセン判決=大阪高判平成6.5.27判時1532号118頁)。 ただし,両部分の比率については,具体的な論拠を示すこともなく,前者の部分をおおまかに,総売上高の3分の1と推認したり(前掲ゴーセン判決),比率を明確にしうる事実がないから総売上高の2分の1とみるほかはないとする(前掲象印マホービン判決)など,かなり大雑把な認定が行われている。 以上の2つの解釈を比較すると,近時の大阪地裁・高裁の判例には,(1)使用者の総売上高のうち独占的実施に起因する部分とそうでない部分との比率を具体的事実に基づいて認定していない,(2)かりに独占的実施に起因する売上高を明らかにすることができるのであれば,そこから直接,使用者の超過利潤を算定することができるはずなのに,なぜ迂遠にも,他社に発明をライセンスして実施料収入を得たと仮定しなければならないのか,といった問題があるように思われる。 本件は,Y会社が自家実施をするほかに,多くの他社にライセンスを与えていた事案である。そのような事案につき,判旨は,Y会社の受けるべき利益の額を5000万円と認定している。その算定の根拠となる事実として,Y会社からライセンスを受けた他社による本件発明の実施状況を指摘しているから,判旨も,前述した先例にならい,Y会社が取得する実施料収入をもって,発明の独占により得られる利益とみなしているものといってよい。 本判決が先例と異なるところは,原判決が口頭弁論の全趣旨なども考慮して認定した5000万円という金額をそのまま採用している点である。原判決も,そして本判決も,従来の判例が示してきたような計算式を用いていない。本判決についていえば,それは,原審でXが行っていた予備的主張,すなわち,Y会社が発明を他社にライセンスすることにより得た実施料額を基礎として相当の対価の額を算定すべしとする主張を控訴審においてXが行っていないことによるものであろう。また,原判決が先例と同様の認定方法をとらなかったのは,本件発明も「諸隅発明」など他の発明と一緒に他社にライセンスされていたとはいえ,他社によるその実施の有無や,他社の売上高に対する本件発明の貢献度といった事実の詳細が明らかでなく,計算式を示すことに裁判所が困難を覚えたからではないかと推察される。 Xは,Y会社が受けるべき利益として,原審におけるのと同様に,CD装置の国内総生産額に実施料率を乗じた金額を控訴審においても主張しているが,判旨はこれを退けている。実際に製造販売されているすべてのCD装置に本件発明が実施されているのであれば,Xの主張には理由があることになろうが,判旨の認定によれば,そのような事実はないという。したがって,このXの主張を退けた判旨は,妥当というほかはない。 なお,特許法35条は,使用者が受けた利益ではなく,受けるべき利益を考慮すべきものとしている。これは,第1には,発明のライフサイクルが完結してから相当対価の額を算定したのでは遅すぎ,実際の事例においては,特許を受ける権利の承継時その他ライフサイクルの途中でこれを算定せざるをえない事情があること,第2には,発明が不実施の場合にも,従業者に対する利益還元型の対価の算定を可能にして,従業者を保護する必要があることによるものと思われる。したがって,たとえば権利の承継時に対価の額を算定することが使用者・従業者間で合意されているのであれば,出願,登録,実施,実施許諾の有無など,その後に生ずる事実はすべて,相当な対価の額を認定するための資料という位置づけとなる(前掲日本金属加工判決,同カネシン判決,同象印マホービン判決,同ゴーセン判決)。 なおまた,特許法が利益還元型の対価の算定を意図しているところからすると,対価の形式は,金銭または現物に限るべきであろう。使用者が提供する地位や名誉は,対価には含まれない。昇進に伴って報酬額が増えたとしても,それが労働の対価とみられるものである限り,発明の対価とはいえない(前掲東扇コンクリート判決参照)。 3. Y会社の貢献度について 特許法35条4項は,従業者が受ける相当の対価の額を算定するに際しては,その発明により使用者が受けるべき利益のほかに,その発明がされるについて使用者が貢献した程度を考慮すべきことを命じている。判旨は,本件においてその程度を95%と認定しているが,その論拠として,(1)Xの提案内容はY会社の手により大幅に変更されて特許を受けたこと,(2)その変更により他社の実施はY会社の特許発明を実施していると評価されるものになったこと,(3)本件発明がXの担当分野と密接に関係するものであったこと,という3つの事実を指摘している。 これらの事実のうち,(1)と(2)の事実は,本件発明がされるについてY会社が貢献した程度を測るために考慮すべき事実とはいい難い。それらは,変更後の発明ないしはY会社の特許発明に対する同社の貢献度を測るための事実であり,換言すれぱ,特許法35条4項が挙げる2つの考慮要因のうち,後者ではなく前者,すなわち,本件発明によりY会社が受けるべき利益の額を算定するために考慮すべき事実である。この取り違えは,原判決に由来する。判旨は,これをそのまま引き継いだものである。 なお,(3)の事実は,本件発明の職務発明性の程度を測る事実であるともいえる。従業者がなす発明には,職務発明性の強いものから,そうでないものまで,様々なグレードがあると思われるが,(3)の事実に注目するならば,職務発明性の弱いものには高い対価を与え,強いものには相対的に低い対価を与えることができる。 なおまた,使用者が勤務規則などに基づき従業者に与える対価の額は,一般に過小ではないか,とする批判がある。これまで判例が認定してきた従業者の貢献度と相当対価の額は,本件の場合は5%と約230万円であるが,事案の違いに応じて,それは5%と840万円(前掲東扇コンクリート判決),10%と330万円(前掲日本金属加工判決),55%と1290万円(前掲カネシン判決),20%と640万円(象印マホービン判決),40%と166万円(前掲ゴーセン判決)など様々である。前述の批判は,これらの認定額に向けられたものではないとは思うが,裁判所による認定額もまた,より高くというのであれば,発明がされるについて従業者が貢献した程度を測る尺度を変える必要があるだろう。これまでは主として技術面の貢献度を問題にしてきたように思われるが,その発明が使用者におけるその後の事業展開のきっかけを提供したというような営業面の貢献度にも注目するならば,事例によっては,従来よりも対価の額を高く算定することができるであろう。従業者の不満には,この営業面の貢献を評価してもらえないことによるものがあるのではなかろうか。本件の事案は,まさにそのようなものであったのではなかろうか。判例が採用してきた算定方式を変更することなく,そのまま用いるのであれば,以上の方法によるのがよいと思われる。 判旨が相当の対価の額として認定した230万円という金額の当否について批評することは難しい。しかし,そのような認定額を示した原判決について,XとY会社の双方がそれぞれに不満を覚え,控訴をしたのが本件である。そのことは,少なくとも,双方がこの金額で折り合うべきことを示唆しているものといえないだろうか。 もちろん,両当事者が控訴しなかったのであれば,その認定額は最良といえるのであるが,本件の場合は,両当事者の考え方が大きく乖離していた事例なのであろう。そのような事例においては,230万円という認定額は,適切な額ということがいえそうである。 4. 消滅時効の成否について 特許法35条は,従業者に支払われるべき対価について,これを相当の対価でなければならないと規定しているが,それは支払総額が相当であればよいということであろう。対価の確定時期や,支払時期などについては,契約自由の原則が妥当する。したがって,たとえば出願補償,登録補償,運用補償というように対価を経時的に数回に分けて確定していくことや(前掲ミノルタカメラ判決),確定した対価(すでに額が判明している対価だけでなく,額を算定しようと思えば,それが可能な状態にある対価を含む)を分割払いする合意は適法である。実際にも,そのような方法が行われていることは,本件の事案が示すところである。 金銭債権の消滅時効の期間は,金額が確定して,請求権の行使が可能となった時から進行する。したがって,前述した対価の分割確定の事例では,その支払時期につき特段の合意や事情がなければ,金額が分割確定するたびに,また,分割払いの事例では,分割払いの期日や期限が到来するたびに,個別の支払請求権の時効期間が進行を開始する。そして,支払総額が相当の対価に満たないときは,その事実が確定した時(確定すべかりし時を含む)において,不足額支払請求権が発生するものと思われ,その時効期間の起算日は,その発生日の翌日ということになる。本件の場合,不足額支払請求権の発生日は,分割確定に係る対価である工業所有権収入取得時報償が支払われた平成4年10月1日か,その前といえる。本件訴訟が提起されたのは平成7年3月3日であるから,Xが有する不足額支払請求権は時効にかかっていない。 判例には当初,対価請求権の消滅時効は,使用者による権利承継の時から進行すると述べるもの(前掲日本金属加工判決)があった。しかし,その後,使用者と従業者の間に別段の合意や,請求権の行使を妨げる特段の事情がある場合を考慮に入れ,消滅時効は,特段の事情のない限り,権利承継の時から進行すると述べるもの(前掲ゴーセン判決)が現れるようになった(相当対価の額の確定時につき同旨を述べるものに,前掲象印マホービン判決)。後者の解釈が妥当であることは,売買の目的物の引渡期限とその代金の支払期限につぎ,それらは一致するものと推定されるだけで(民法573条),これと異なる合意をなすことは,自由であることからも首肯される。実際にも,掛け売りや,代金の手形決済が行われていることは,周知の事実である。 なお,従業者が有する対価請求権の消滅時効期間は,使用者がいわゆる固有の商人(商法4条1項)または擬制商人(同4条2項)である限り,商事時効の5年である(同503条・3条1項)。本件の原判決のほか,他の判例も,使用者が会社,すなわち商人である事例において,例外なく民事時効の10年とするのであるが,それは誤りであろう。民事時効が適用されるのは,使用者が国または地方公共団体などであって,承継した権利に係る事業が商行為(同501条・502条)でなく,それゆえ権利承継が附属的商行為に当たらない場合に限られよう。判例が民事時効を適用してきたのは,商事時効を適用したのでは,従業者にとって酷だとの心情が働いたことによるのかもしれないが,たとえば骨董屋に先祖伝来の壷を売り払った貧者の代金請求権も5年の時効にかかる。この問題は,商法の適用範囲を定めるという技術的な問題であり,そこに解釈を入れる余地はない。ちなみに,対価請求権以外の労働契約上の賃金請求権は2年,退職金請求権は5年で時効にかかる(労働基準法115条)。これとのバランスということもある。 もっとも,従業者が使用者に対して対価の支払いを請求するのは,実際には退職後のことであり,対価請求権の行使可能時からは大分時間が経っているのが通例である。そのため,従業者の対価請求は,時効の壁に阻まれることが少なくない。たとえば,権利(複数)の承継時が1965年から67年にかけての時期,退職時が1979年,訴訟提起時が1979年という事例(前掲日本金属加工判決)や,/権利(複数)の承継時が1978年から79年にかけての時期,退職時が1985年,訴訟提起時は1991年という事例(前掲ゴーセン判決)があるが,これらの事例においては,民事時効の成立が肯定されている。 商事時効を適用すると,従業者にとって,より厳しい状況となることは明らかである。そのことを示す事例として,民事時効ではなく商事時効を適用すると,請求の一部が阻まれたであろうとみられる事例(前掲カネシン判決)がある。事案は,権利(複数)の承継時が1981年から87年にかけてよりも前の時期,退職時が1988年,訴訟提起時が1989年というものであった。なお,この事例では,援用しうるのは民事時効であると使用者側が思い込み,時効を援用しても仕方がないと考えたのであろうか,実際には時効は援用されておらず,従業者の請求が認容されている。 商事時効の適用が従業者にとって不利であることを思うと,使用者が民事時効を援用する場合は,裁判所としては,その主張どおり,民事時効の適用を認めるという解釈があってよいのかもしれない。時効の援用がなければ,裁判所は,請求権の時効消滅を認定する必要はないわけだから,使用者が自分にとって不利な民事時効を主張するときは,その主張に沿った認定をすれば足りると解釈することができないわけではないようにも思われるからである。しかし,使用者の時効援用の誤りを裁判所が釈明もしないで黙ってみていなければならないというのも,おかしな話である。 本件の場合は,Y会社による本件発明の権利承継時(発明完成時)は1977年,Xの退職時は1994年,訴訟提起時は1995年である。訴訟が提起されたのは,権利承継時から18年後のことである。その間に何もなかったならば,Xの請求は,時効の壁に阻まれたであろう。しかし,本件の場合は,これまで紹介した他の事例とは異なり,たまたまY会社が工業所有権収入取得時報償を支払うことを約束しており,かつ,実際の支払いがなされたのが1992年であったという事情がある。この事情にXは救われている。 本件と同様の事情により,時効の完成が否定されたとみられる事例は,ほかにもある。たとえば,権利(複数)の承継時が1962年から72年にかけての時期,退職時が1977年,最後に実績補償金の支払われだ年が1977年,訴訟提起時が1981年という事例(前記東扇コンクリート判決)や,権利の承継口寺が遅くとも1982年,退職時が1983年,使用者による弁済提供時が1989年,訴訟提起時が1991年という事例(前掲象印マホービン判決)がそれである。いずれの事例においても,時効は援用されていない。 本件を含め,これらの事例は,勤務規則などに置かれている対価の分割確定や分割払いの規定が従業者の保護になっていることを示している。 しかし,そのような規定が置かれていない場合が問題である。また,民事時効を適用してもなお,従業者が救済されない事例があることは,前述したとおりである。 時効の問題について,どうしても従業者を保護する必要があるというのであれば,法改正をして,退職後何年以内の請求は許すというような特則を置くことも考えなければならないのかもしれない。 5. おわりに 本判決は,職務発明の対価につき,不足額の支払いを使用者に命じたものであるから,使用者にとっては,いつまで経っても対価支払いの最終期限が定まらず,特許管理上の不都合を招くという不満が残るものであったと聞いている。しかし,使用者の利益は,第1には,企業技術者に対する労務管理を万全に行い,従業者の企業帰属意識を維持することに努めるならば,5年の商事時効によって護られる。使用者にとって,これは目立たないけれども,強力な防護壁といえる。従業者が在職中に不足額の支払請求訴訟を提起することは,通常は考えられないことだからである。第2は,時効の援用という角度からだけ事柄を観察するならば,対価の支払いは,実績をみながら数回に分けて支払うよりも,1回払いがよいということである。本件において時効の成立が認められなかったのは,数回の分割払いの事例であったからである。第3は,職務発明の評価を正当に行うことである。正当にとは,従業者に対して評価方法についての情報を十分に開示して,面倒と感じられても,その理解を得ながら評価を進めるよう努めることである。訴訟となった事例には,その手続きが十分でなかったという特徴が共通してみられるようである。この点を改めることなく,たとえば,法律を変えて,これまでの手法を維持しようと試みるようなことは,なすべきことではない。 |