判例評釈 |
第一国出願における化学合成物に関する発明を未完成と 認定し,優先権主張の利益を享受することができないと して,優先権主張を認め特許法29条の2,1項の先願に あたるとして拒絶査定を支持した審決を取り消した事例 |
〔東京高裁平成5年10月20日判決,平成4年(行ケ)第100号審決取消請求事件,知的財産権判例集25巻3号621頁以下,(確定)〕 |
木棚 照一 |
<事件の概要> |
Xは,昭和55年(1980年)3月31日に名称をMB−530A誘導体と称し,コレステロールの生合成を阻害する性質を有し,たとえば抗脂血剤,動脈硬化予防薬として使用することができる化学物質の発明につき特許出願した。ところが,この出願の前である1980年2月4日にアメリカ合衆国でした特許出願AおよびBに基づく優先権を主張して昭和56年(1981年)2月4日に日本でした発明者を異にする特許出願を引用例として平成2年(1990年)10月31日に拒絶査定を受けた。そこで,Xは,この先願とされた特許出願の優先権主張の基礎となったアメリカ特許出願AおよびBの明細書の記載によると,発明の対象である化合物の原料となる化合物が微生物を用い醗酵法によって製造されるのにかかわらず,特許出願AおよびB当時未公開であった自己の他のアメリカの特許出願の番号と出願日を括弧書で引用するにとどまり,当該微生物の入手方法等について具体的に明らかにされていないから,発明は未完成であり,この出願に基づいて優先権の利益を享受することができないと主張し,拒絶査定を不服として審判を請求した。しかし,特許庁は,平成4年(1992年)3月19日に次のような理由で「本件審判請求は,成り立たない」との審決をしたので,この審決の取消しを求めてXが特許庁長官Yに対し訴えを提起したのが本件である。 |
<判旨> |
原審決取消し。
1 「一般にわが国においては,化学物質の発明の成立が肯定されるためには,1化学物質そのものが明細書において確認できること,2化学物質の製造方法が明細書に明らかにされていること及び3化学物質の有用性が明細書に明らかにされていることの3要件が必要である」こと,特許庁の「運用基準」によれば,化学物質の製造方法は,「原料物質,製造条件及び場合によっては製造装置等必要な事項と共に当業者が容易に実施することができる程度に具体的に記載されていなければならない」こと,「運用基準の示すところは,わが国の特許法の規定に照らし,化学物質の発明の成立を判断するうえで妥当なものと認められる」ことを前提として確認し,アメリカ特許出願AおよびBの明細書(判決文では,米国明細書AおよびBとされている)とこの分野の権威者の鑑定意見書を検討したうえで,結論的に,「先願化合物Iaの製造方法のうち,最も重要かつ基本的な点は,出発物質IIIaの製造方法であり,米国特許出願A又は同Bの各出願当時,その製造方法は,米国明細書A又は同Bに示されたMonaghan等の他の米国特許出願第48946号による新たな醗酵法による以外にはなく,これが開示されていれば,その後の4工程の化学合成は当業者によって可能であったものの,米国明細書A又は同Bには,・・・・・・他の米国特許出願番号のみが記載され,その開示がなされていなかったことから,その詳細な製造方法を当業者が知りうる手段はなかったことが明らかである。」とする。 2 「米国明細書A又は同Bは,目的物質である先願化合物Iaを得るにつき最も根源的かつ重要な出発物質IIIaの製造方法について,その発明の属する技術分野における通常の知識を有する者(当業者)が容易に実施することができる程度にまで開示したものということはできず,結局,先願化合物Iaの発明としては,当業者が反復実施して目的とする技術的効果をあげることができる程度にまで具体的・客観的なものとして構成されているということができないから,・・・・・・わが国特許法の解釈として,発明未完成の瑕疵があるものというべきである。」このことは米国特許法による解釈を採用しても同様であることは、米国の元判事の鑑定意見からも明らかである。 3 「米国特許出願A又はBは,わが国特許法上の解釈として,先願化合物Iaの発明につき発明未完成の瑕疵があるものというべきであるから,完成された先願化合物Iaの発明である先願発明の特許出願との同一性を欠くものといわなければならない。 このように解される以上,先願発明は,米国特許出願A又は同Bに基づきパリ条約4条B項に定める優先権主張の利益を享受することができないというべきであり,これら米国特許と合わせて優先権主張の基礎とした米国特許出願C及び同Dの出願日及び先願発明の出願日が本願発明の出願日に遅れることは明らかであるから,先願発明の特許出願が,本願発明の特許出願に対し,先願としての地位を有するものということはできない。」 |
<評釈> |
1 本件判決は,特許法29条の2,1項の後願排除の基準日を優先権主張日であるとみる従来の判例(東京高裁昭和60年12月19日判決,判例タイムズ620号176頁以下,東京高裁昭和63年9月13日判決,判例時報1296号123頁以下等)を前提として,かつ,特許庁の昭和50年10月策定の「運用基準」の化学発明の成立要件,化学物質の製造方法の記載要領を妥当なものと認めたうえで,発明の対象となる化学物質の原料化合物が新規の微生物を用いて醗酵法により製造されなければならないのに,先願の優先権主張の基礎となったアメリカ特許出願AおよびBの明細書に自己の未公開の他のアメリカ特許出願の番号および出願日を引用するにとどまった場合に,原料化合物の製造方法をこの発明の最も重要かつ基本的部分とみて,先願発明を未完成であり,優先権主張の利益を享受することができないものであるから,本願発明の特許出願に対し先願としての地位を有しない,として,これを先願にあたるとして拒絶査定を維持した原審決を取り消したものである。第一国出願における発明の未完成を理由にして優先権主張の利益を認めなかった判決としては,本件判決以前にすでに東京高裁昭和52年1月27日判決(無体財産裁判例集9巻1号16頁以下)があった。本件判決は,特許法29条の2の先後願関係に関連して,第一国出願における先願発明の完成・未完成が問題となっている点と,先願発明の化合物の原料物質の製造方法が公知でなく,新規な微生物を醗酵させる方法によらなければならない場合に,この微生物について未公開の自己の他のアメリカ特許出願の出願日および出願番号を引用するだけで,入手方法等につき記載がないときは先願発明を未完成とみることを明らかにした点で特徴がある。
そのうち,前者の点,つまり,特許法29条の2の拡大された範囲の先願としての基準日については,学説上第二国出願日説と優先権主張日つまり第一国出願日とする説が分かれている。第一国出願日説に立ったとしても,その根拠を本件判決のように,直接パリ条約4条Bに求めるか,それとも,パリ条約4条のBに直接根拠を求めずに,これとは別に,あるいはこれと並行して特許法29条の2の立法趣旨などに求めるかについては争いがある。わたくしは,このような場合にまでパリ条約4条Bに直接根拠を求めることについては疑問を持っている。しかし,この点については本件でとくに争点となっていないこともあって,本件判決は,パリ条約4条のBに直接根拠を求めて,従来の判例でも支持されてきた第一国出願日説を採っている。理論的には検討の余地があるが,この点についてはわたくし自身の見解はこれまで既に明らかにしてきたので(特許管理38巻3号357頁以下,同40巻3号295頁以下の各判例研究参照),ここではこれ以上触れないことにし,後者の問題点,つまり,優先権主張の基礎となっているアメリカ特許出願AおよびBの明細書に記載されている発明を未完成とみるのが妥当であるかどうかに絞って,本判決の意義と限界を検討することにする。 2 優先権主張の要件として,第一国出願と第二国出願の発明の同一性が必要であることはいうまでもない。優先権に関する同一性の概念をできる限り緩やかに考えようとすれば,第二国出願が第一国出願に対し独自の発明の高度性をもたない限り同一性があるとする見解も考えられないわけではないが,このような極端な見解は未だ主張されてはいないし,妥当なものともいい難い(Friedrich−Karl Beier und Rainer Moufang,Verbesserungserfindung und Zusatzpatente im Prioritätsrecht der Pariser Verbandsübereinkunft,GRUR Int.1989,Heft12,S.877参照)。第一国出願の発明が未完成であり,発明として成立していない場合には,第二国出願の発明が完成したものであっても,発明の同一性を欠き,優先権主張の要件を欠くから優先権主張の利益を享受することができないことは議論の出発点として肯定することができるであろう。そこで,まず問題となるのは,第一国出願の明細書等の出願書類で記載されている発明の完成,未完成を判断する基準となるのは,パリ条約4条Hのほか,第一出願国の法であるか,第二出願国の法であるか,である。本件に則していえば,パリ条約4条Hから当然に明らかにならないとすればそのような点について,アメリカ特許法によるべきか,それとも日本の特許法によるべきかが問題になる。 本件判決は,この点につき第二出願国である日本法によるべきことを前提として,わが国の特許法の解釈として特許庁の「運用基準」を妥当なものとみてこれを基準として,第一国出願の発明に未完成の瑕疵がある,としながら(判旨2,3),アメリカの元判事の鑑定意見書を引用して第一出願国であるアメリカ特許法の解釈としても正当な優先日はアメリカ特許出願CおよびDの出願日である1980年8月5日になり,結果的に同じ結論になる,としている(判旨3末尾)。この問題は,パリ条約4条Hから結論を導くことができないとすれば,いずれの国の法が適用されるべきかという抵触法上の問題であり,議論の余地がある。わが国においては,本件判決以前にも第二国である日本特許法によって第一国出願の対象となった発明を未完成とみて優先権主張の要件である発明の同一性を欠くから,「優先権主張を認めなかった判断に違法のかどはない」とした前述の東京高裁昭和52年1月27日判決がある。一般に,優先権の主張要件である発明の同一性の判断については,第二出願国の法によるのが国際的にみても学説・判例上支配的な見解であるといわれている(たとえば,Beier u.Moufang,op.cit.,S.875)。この点に関する本件判旨もこのような傾向の中で位置づけられるであろう。パリ条約上定められていな い問題に関しては各同盟国の国内法によらざるを得ないであろうが,その場合にいずれの国の国内法によるべきかが優先権主張に関するパリ条約の規定から直ちに導かれないとすれば,属地主義の原則によって特許権の付与に関し問題となっている国,つまり,第二出願国の法が適用されるのが原則となろう。しかし,この点をあまりに強調すると,各国特許法の開示要件の相違ともかかわって,発明の同一性がそれぞれの同盟国で自国法に基づく厳格な解釈によって優先権制度の趣旨が没却されるおそれが生じる(たとえば,木棚照一『国際工業所有権法の研究』<日本評論社,1989年>57頁以下参照)。本件判決は,おそらくこのような問題点があることを意識して,第一国であるアメリカにおいても本件のような事例においては結論が異ならないことをあえて付け加えたのであろう。もっとも,引用された鑑定意見は必ずしも発明の完成・未完成に対応する部分ではないように思われる。 本件の事例のように,出発物質が新規な微生物からバイオ的な方法で製造され,そのような微生物に関する自己の他の特許出願の出願日と出願番号を記載している場合には,パリ条約4条Hの解釈自体から結論を導くことができるとする見解が成り立ち得ないであろうか。たとえば,パリ条約4条H但書は,最初の出願に係る「出願書類の全体」といっていて,これは,4条D,2項でいう「特許及びその明細書」と同じ用語を用いてはいない。微生物から原料物質を製造することが発明の構成部分として重要であるとしても,微生物の特定,入手方法を含めた原料物質の製造方法を詳細に記載することが常に必要であるわけではない。このような場合に微生物の寄託場所と寄託番号を明細書に記載するだけであっても法的にほとんど異ならないことが多い。少なくともこのような場合に,明細書に自己の他の特許出願日や特許番号を記載することによって直接の記載に代えた場合には,これらの書面もパリ条約4条Hの出願書類全体に当たるものと考えることができないであろうか。これらの書面も「出願書類の全体」に当たるとしても明細書の内容となることが必要であるとみれば,第一国出願当時そのような特許に関する書面等が公開されていることを要することになるであろうが,しかし,発明の完成・未完成の問題のみにかかわってみれば,記載不備の問題とは異なって発明の実質・実体にかかわるから,第一国出願当時に公開されていることを要するものとすべきではなく,第二国出願当時公開されていれば十分ではなかろうか。確かに,パリ条約4条Hは,このような解釈を否定するものではないであろう。しかし,この規定自体にいうまでもなく一定の解釈の幅があり,その文言および趣旨だけから直ちにこのような結論を導くことには無理がある。この問題は国内法の解釈による補充を必要とするのであって,パリ条約4条Hがそれにどの程度の制約原理として働くかが残された問題になるように思われる。この点について,後述4の該当部分を参照。 3 それでは,本件のアメリカ特許出願AおよびBの対象となっている先願発明は,日本特許法の解釈からみて未完成発明とみるべきであろうか。 まず,日本の特許法における未完成発明の概念,意義との関係をみておこう。発明の未完成を拒絶理由とする審査実務は,大正10年法1条の「工業的発明」の解釈として形成され,現行特許法の解釈としても維持されている。最高裁昭和44年1月28日判決(民集23巻1号54頁以下)は,フランスの発明者による原子力に関する発明を未完成として拒絶査定を支持した審決の取消しを求めた訴訟において「明細書において発明の技術的内容がその技術分野における通常の知識をもつ者にとって反復実施できる程度まで具体化,客観化されて記載されていないものは,技術的に未完成で,旧特許法第1条にいう工業的発明に当らない」とした。その後,東京高裁昭和49年9月18日判決(無体財産裁判例集6巻2号281頁以下)は,獣医用組成物に関する発明を未完成として拒絶査定を維持した審決の取消しを求めた訴訟において「現行特許法のもとにおいては,発明の未完成などという明文の規定を欠く,不明確な理由により・・・・・・特許出願について拒絶してはならない」とした。この審決取消訴訟の上告審において,最高裁昭和52年10月13日判決(民集31巻6号805頁以下)は,この原審判決を破棄して「その技術内容は,当該の技術分野における通常の知識を有する者が反復実施して目的とする技術効果を挙げることができる程度にまで具体的客観的なものとして構成されていなければならないと解するのが相当であり,技術内容が上記の程度まで構成されていないものは,発明として未完成のもの」とし,発明未完成を拒絶理由とすることを肯定した。昭和44年判決が旧法の解釈についてではあるが,結局現行法36条4項と同じ文言を用いており,発明開示不十分と発明未完成を明確に,意識的に区別していなかったのに対し,昭和52年判決は記載されているかどうかではなく,構成されているかどうかを基準とし,この点を意識的に区別しようとしている点で注目される。ところが,本件判決は,一方では,昭和52年判決前に作成された「運用基準」をこの点についてもそのまま肯定して,当業者が「容易に実施することができる程度にまで開示したものということができず」とし,他方では,「当業者が反復実施して目的とする技術効果を挙げることができる程度にまで具体的・客観的に構成されているということができない」(判旨2参照)として,2つの最高裁判決のこの部分を結論的に結合させているように思われる。この点で本件判決についても,「52年最高裁判決の要件を厳格に検討しないで,44年判決の水準のままに安易に未完成発明と認めたすこぶる問題のある判決」とする批判がある(中島和雄「発明未完成と明細書の開示不十分」特許管理44巻12号<1994年>1687頁)。 確かに,本件判決は,特許庁の前述の「運用基準」の検討においても,「4化学物質の成立性」「2明細書の記載要領」「6明細書の要旨変更」の各項を並列的に確認し,この「運用基準」の示すところは,わが国の特許法の規定に照らし,化学物質の発明の成立を判断するうえで妥当なものと認められる,としている。しかし,発明の完成・未完成は,本来的に明細書の記載以前の発明の実質,実体にかかわるものであって,単に明細書の記載が不十分であるために開示不十分となる場合と厳密に区別するように努めるべきであろう。とりわけ,優先権の要件についてパリ条約は発明開示について直接述べてはいないが,優先権制度の趣旨からみて外国の第一国出願につき第二国である内国の基準を適用することは許されないとする見解が有力であり(木棚照一・判例研究,特許管理32巻2号216頁参照),また,パリ条約4条Hは,発明の構成部分に限り第二国の基準を適用することを認めているが,最初の出願に係る「明細書」だけではなく「出願書類の全体」からその構成部分が明らかにされていれば足りるのであるから,明細書の記載不十分を発明未完成と厳格に区別することができるように解釈されるべきであろう。さらに,記載不十分であれば,要旨変更に当たらない範囲内て補正が可能であり,補正が認められればその効果は出願時に遡るのであるから,補正が認められない発明未完成の場合と明らかに異なる。発明が未完成かどうかの判断資料は先願主義を採るからといって必ずしも明細書の記載に限られるべきではない。出願人等の面接から得られた事実や提出されたそれ以外の資料などを利用することは何ら先願主義と矛盾するところでもないと思われる。この点に関する本件判旨には賛成することができない。 次に,本判決が先願化合物の出発物質の製造工程を最も基本的で重要な工程であるとみたことが妥当であるかどうかについて検討する。本判決は,北海道大学名誉教授伴義雄の鑑定意見を援用して,米国出願当時平均的技術者が有機化学的方法によって出発物質を得ることが至難であったこと,出発物質の化学構造式のみを頼りにその生産菌を見つける可能性は皆無に近いから,醗酵的方法によっても当時の平均的技術者にとって出発物質を得ることが不可能であったこと,このいずれの方法によっても出発物質を得ることができないとすれば,それから先の工程を実施する由がないことから,先願化合物の製造方法のうち,最も重要かつ基本的なのは出発物質の製造方法である,とする。米国出願当時出発物質が新規性を有し,特定の未知の微生物を利用してのみ初めて製造することができ,出発物質が製造できなければ結局先願化合物も製造できないという特段の事情のもとで,その微生物について当初から米国出願AおよびBの明細書に直接,具体的に記載されるべきである,とするものであり,結論的には均衡のとれた判断であるとして,これに賛成する見解がある(仁木弘明「第一国出願における発明を未完成であると認定して優先権の利益を享受できないとした事例(3)(完)」特許管理44巻8号1082頁)。これに対し,判旨が単に技術的観点から述べた鑑定意見をそのまま採用しているかにみえる点で批判的な見解がある(俵湛美「化学物質発明の未完成に関する考察」知財管理46巻7号1092頁以下)。発明とのかかわりでみれば,発明を特徴づける構成要件部分は何かが問われねばならないのであり,このような観点からみれば,目的化合物の発明にとって最も重要なのは目的化合物を生成物とする最終工程であり,出発物質の製造は技術的には重要であっても,目的化合物の発明の特許にとっては重要とはいえず,出発化合物を製造する行為は特許の直接侵害とはならず,単に間接侵害の可能性があるにすぎない,とされている。確かに,本件発明の中における出発物質の製造工程の位置づけについてみればそのようにみることができる。しかし,問題となっているのは,発明の完成,未完成の認定との関係であるから,このような見解に直ちに賛成することはできない。 4 それでは,出発化合物の製造に必要な新規な微生物の寄託先や寄託番号を直接明細書に記載するのではなく,自己の他のアメリカ特許出願の出願日および出願番号を記載することによって間接的に微生物の寄託番号を記載することは認められないのであろうか。 わが国においては,出願当時未公開の自己の他の日本特許出願や日本実用新案登録出願の番号を明細書に引用して記載を補充することは実際上行われており,必ずしも慣行上禁止されているわけではないといわれ,これを認めた判例などが挙げられるとともに,補正による新規事項の追加を厳しく制限した平成5年法による改正以後においてすらこの改正に伴って公表された特許庁の「明細書及び図面の補正の運用指針」の1章1節2.5.4(2)「明細書における文献の引用に基づく補正」の項において「当初明細書の記載のみに基づき当業者が直接的かつ一義的に導き出せる」場合には補正が認められることになると指摘されている(仁木・前掲論文(2),特許管理44巻7号950頁以下参照)。このような観点から,本件の微生物を利用した醗酵方法によって製造されるのは,クレームに記載された発明の目的物そのものではなく,その原料物質にすぎず,単なる前提技術であるから,少なくとも平成5年改正前の特許法が適用される本件のような場合に,引用された番号の出願に後に特許が付与されたときは,補正によって特許番号を追記すれば明細書記載上の瑕疵は治癒されると解し得る余地を認めている(仁木・前掲論文952頁)。しかし,米国には日本と異なって出願公開の制度がないところから,未公開の特許出願が一定期間経過後必ず公開されるとは限らない。また,米国特許庁審査便覧においても,引用される出願発明は引用する特許出願の出願日に公開されていることが必要であり,自己の未公開の特許出願の引用は特許許可通知を受けかつ特許料を納付した場合に限り例外的に認められるに過ぎないから,わが国の特許審査実務からみても,直接的,具体的記載に代えて特許出願の番号を引用することが認められる場合に当たらない,とされる(仁木・前掲論文(3),特許管理44巻8号1080頁)。 それに対し,他の特許出願の引用や参照についての一般論がそのまま本件のような微生物の寄託先や寄託番号などについて当てはまるかどうかに疑問をはさみ,少なくとも1978年10月1日の特許協力条約(PCT)発効後は,他の自己の特許出願の出願日および出願番号を引用することによって微生物の寄託先や寄託番号などの記載に代えることができなくなったとみる見解も研究会で主張された。けだし,特許協力条約と同時に施行された「特許協力条約に基づく規則」第13規則の2の「微生物に係る発明」の項においては,13の2.3(a)によると,寄託された微生物への言及には,寄託機関の名称・宛名,寄託国,寄託番号,国際事務局が通知を受けた追加事項を表示しなければならなくなったからである。しかし,PCTルートの特許出願に関するこの規則の条項から直ちにパリ条約ルートの出願についてまでこのような結論を導くことには無理があるのではあるまいか。また,13の2.4によれば,このような事項のいずれかが含まれていない場合にも,指定官庁の属する国の国内法がより早い時期に届け出ることを要求し,かつ,国際事務局が所定の要件の通知を受けていない限り,出願人が優先日の後16カ月以内に国際事務局に表示を届け出ることによって指定官庁に所定の期限までに表示が行われたものとみなされている。この規定からみれば,むしろ一定の期間内におけるこれらの事項の表示に関する補正を認めることを窺わせるものとみることができる。これは,結局,微生物に係る発明の明細書における記載事項,記載の仕方,寄託機関,寄託すべき時期およびそれらの記載時期などが各国の法制上異なっていることを考慮したものといえよう。 ところで,微生物の発明の明細書の内容の一部として必要になる寄託については,わが国でも1980年8月29日以来発効している「特許手続上の微生物の寄託の国際的承認に関するブダペスト条約」があり,この条約加盟国において特許出願をする場合には条約上定められている国際寄託機関に寄託すればよいが,寄託すべき時期については必ずしも一致していない。先願主義を採る多くの国では出願日または優先権主張日以前に寄託すべきとされている。しかし,たとえば,イギリスでは最初の寄託時期について定められておらず,オランダでは異議申立との関係で特許庁の指示に基づき公告日より少し前に寄託すればよいとされ,アメリカでは,出願中および出願継続中であれば,審査官の求めに応じていつでも可能であり,通常,特許査定の後,特許料支払い前までに寄託すればよいとされているようである(バイオテクノロジー委員会第3委員会「微生物の寄託について」特許管理41巻4号486頁参照)。少なくとも,このような諸国においては,出願人は,その出願時において微生物を一般的に明らかにしたり,微生物を手に入りやすくする必要はないのである。ブダペスト条約も複数の国で微生物を寄託しなければならない出願人の負担を軽減するために,3条でいずれかの締約国における微生物の国際寄託を承認する義務を締約国に負わせているのである。したがって,優先権の基礎をなす第一国出願についてアメリカやイギリスないしオランダでなされた寄託も日本でなされた寄託と同様に有効なものとして取り扱われるべきことになる。 また,特許出願の明細書において微生物の寄託先や寄託番号などの代わりに他の特許出願番号が記載されている場合にも,その特許出願の明細書を考慮すべぎかどうか,どのような要件のもとで考慮すべきかについて各国の取扱いが必ずしも一致していないように思われる。しかし,この点について,ストラウス(Joseph Straus)は,バイオに関する特許保護の専門家の立場から,ヨーロッパ特許庁抗告部の1993年9月9日決定,ドイツ連邦裁判所の1984年10月23日の決定,1949年イギリス特許法69条2項のコメント,アメリカの1973年のHawkins事件におけるCCPAの判決の検討などに基づいて,他の特許出願番号が記載されており,その特許明細書に微生物の寄託先や寄託番号が記載されている場合には,特許出願の明細書に寄託先や寄託番号が直接記載されている場合と法律的には何ら異ならないとされ,パリ条約4条Hの「出願書類の全体により明らかにされている」というのは,このような他の特許出願の明細書による場合も含むと主張されている点が注目される(Ders,Zum relevanten Offenbarungs gehaltvon Priori tatsanmeldungen nach Art.4H Pariser Verbandsübereinkunft,GRURInt.1995,S.103ff.)。 5 このようにみてくると,本件のように,出発物質が微生物から得られる場合に,自己の他の特許出願の番号のみを記載し,当該微生物の寄託機関,寄託番号等の記載を欠くことを第一国出願を発明未完成とみて,優先権主張の要件である第二国出願の発明と同一性を欠くものとすると,実際上記載方法に仮託して優先権を不当に否定することになる危険性があるといわざるを得ない。本来,発明の完成・未完成は,明細書の記載以前の発明の実体にかかわるものであることはいうまでもない。確かに,優先権を主張するためには,第一国出願の時点で発明が完成している必要があるが,本件はそのような事例に当たるというべきではないのではなかろうか。微生物の寄託時期や記載方法による取扱いにパリ同盟国,とりわけ先進諸国間で相違がある以上,それによって優先権を否定することはできる限り避けることができるように解釈するのが4条Hにも適合するであろう。少なくとも,本件のように第二国出願の時点において出願番号が引用された特許出願が公開されている事例においては,言及されたその特許出願の明細書から,微生物の寄託機関や寄託番号等を知ることができるのであるから,第一国出願の時点において発明が完成していたかどうか,実施可能であったかどうかを判断するために障害は生じないはずである。自己の他の特許出願番号を明らかにしているにとどまり,第一国出願の明細書に直接微生物の寄託機関や寄託番号等を記載していない場合には,第一国出願の対象となった発明を直ちに未完成とみるよりは,むしろ記載不十分として,補正が許されるかどうかを問題とする方が妥当な解決であるように思われる。この点からも本件判旨に賛成することはできない。 |