判例評釈 |
秘密として管理されていた製造技術についての ノウハウを退任取締役が他へ開示などして利用 する行為が不法行為になるとされた事例 |
〔大阪高裁平成6年12月26日判決,平成4年(ネ)460号,損害賠償請求控訴事件,判例時報1553号133頁〕 |
川口 博也 |
<事実の概要> | ||||||||
X(原告・控訴人)は,訴外E会社の有する本件特許などを実施するために設立されたE会社の子会社であり,その特許の専用実施権者である。Xは,本件特許を改良した本件技術(後出)の権利者で,その技術および生産設備一式を中国に輸出する交渉を進めていたが,契約代金や販売地域について合意が成立せず,交渉が中断されていた。ところが,この契約交渉の責任者であるY(被告・被控訴人−Xの取締役技術開発部長)がXを退社し(昭和59年3月),訴外A会社を設立し同B会社と共謀して,Xの提示価格よりも低い価格で,しかも,販売地域制限なしに,Xに在職中に交渉相手であった中国公司と訴外Bとの間に本件技術などの売却・実施許諾契約を成立させ(昭和59年5月),その結果,Xと同公司間の前記契約成立の可能性を失わせた。そこで,Xは,それによる逸失利益(契約成立により得べかりし技術料および生産設備輸出利益)をYに請求したのが原審である。原審(判例集などに不掲載)は,Xの請求を棄却した。本件はその控訴事件であり,争点は次のとおりである。
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<判旨> |
請求認容(原判決変更,上告)
1 争点《1》について 次のように,本件技術は本件特許と異なるとされる。第二工程にXが使用した「『三和SJ発泡機』では,加熱時間が塩浴法(本件特許の実施方法)の半分程度で済む・・・・・・一次発泡過程における発泡剤の未分解率を本件特許の範囲である40〜85%よりもさらに高くすることも容易に可能となり・・・・・・」(前出判例時報138頁1欄)。本件技術の「範囲中には,本件特許の実施技術も含まれるが,それとともに,その範囲外の改良技術も含まれている」などの理由で本件技術が本件特許の技術的範囲内にあることを前提とするYの主張は採用できないと述べている(同139頁1欄)。 2 争点《2》について 「発泡ポリエチレンに関する研究開発に関しては,部門の管理者として,実験の立会いや特許出願についての取りまとめ等事務的な面での関与がほとんどであって,それらの出願に発明者として名を連ねているのも,右管理者としてに過ぎず,実際の研究開発を被控訴人が行なったことを示すものではない・・・・・・」(同142頁1欄)との理由で,Yは本件技術の発明者ではないとされる。 3 争点《3》について 以下の理由により,本件技術は不法行為の保護利益に当たるとされる。 本件技術は「その機械の組合せ,運転条件,樹脂と配合剤等との配合率,作業方法,タイミング等の技術の確立なしには製品の製造はおぼつかないことは明らかであり,・・・・・・被控訴人のみが保有する固有のノウハウと認めることができる・・・・・・」(同141頁3欄)。 「本件技術に関する資料は,すべて施錠された特別の書類箱に入れられ,その鍵は被控訴人が管理し,必要時以外には出さないようにされていた。また,本件技術の海外輸出にあたっては,輸出の相手方に本件技術につき守秘義務を課すことも行なっており・・・・・・」(同138頁3〜4欄)。 4 争点《4》について 退職後の守秘義務,競業避止義務に特約がない場合であっても「契約関係の終了とともに,営業秘密保持の義務もまったくなくなるとするのは相当でなく,・・・・・・,信義則上,一定の範囲ではその在職中に知り得た会社の営業秘密をみだりに漏洩してはならない義務をなお引き続き負う・・・・・・従業員ないし取締役であった者が,これに違反し,不当な対価を取得しあるいは会社に損害を与える目的から競争会社にその営業秘密を開示する等,許される自由競争の限度を越えた不正行為を行なうようなときには,その行為は違法性を帯び,不法行為責任を生じさせる・・・・・・」。 これに加えて,不法行為の成否についてのまとめとして,Yは「中国側の意向が,控訴人の輸出責任担当者として本件技術を知悉していると思われる被控訴人を介し,本件技術と生産設備を,より安価に,かつ,有利な条件で購入することにあることを十分察知しながら,・・・・・・,莫大な利益になることからこれに応じ,被控訴人が有する本件技術に関する情報をそのまま使用し,・・・・・・,本件技術と生産設備を売却し,もって,控訴人が本件技術と生産設備を右各分公司に売却する機会を失わしめた,・・・・・・,右被控訴人の行為は,自由競争の範囲内として許容される正当な競業行為の限界を超えるものであって,違法性を帯び,不法行為を構成する・・・・・・」と述べている(同142頁2〜4欄)。 |
<評釈> |
《1》判旨1および2は事実認定に関するものである。判旨3は不法行為の保護利益に関する判断であるが,その基準は不正競争防止法で保護される「営業秘密」の定義に依拠している(不競法2条4項)。ここでは,判旨4の法律構成の当否について検討する。
判旨は,Yの行為の違法性の根拠を守秘義務違反および競争行為の違法性に求めている。したがって,本件のように退職後の守秘義務違反のケースにおいては,守秘義務が退職後どの程 度の期間存続するのかについてその都度判断を示さなければならない。本件の場合は,退職後2カ月という短期間でYは前記契約を締結しているので,その間に本件技術の公知技術化などの問題も生じておらず,在職中の義務違反と同様の結論に達している。また,競争行為の違法性の根拠として,不当な対価を取得する目的ないし会社に損害を与える目的が例示されているが,このような考え方も不正競争行為の定義に依拠したものであるが(不競法2条1項7号),不法行為の要件としての違法行為類型は,必ずしも同様に構成するのが適切であるとは限らず,むしろ,より端的な違法行為類型を概念化する方向が望ましいと考えられる。 《2》本件と類似の事実関係における損害賠償請求事件としては,退職後にかつて在職した会社(X−原告)と同種の業務を目的とする会社を設立したY1(被告)が,退職した会社の従業者Y2(被告)を自社の取締役として迎え,Xの営業上の秘密資料や顧客リストをY2に持ち出させ,Xのものとほとんど同一の商品カタログを作成し,前記顧客リストを利用して通信販売をしたという事例がある(大阪高判昭58.3.3,判時1084−122<コルム貿易事件>−顧客リストの使用料相当額の賠償請求が認容されている)。秘密資料の内容が本件とは異なるが,退職後の秘密資料の持ち出しとその利用が立証できれば不法行為の成立が認められる例として理解することができる。 本件の事実関係のもとにおいては,本件技術の資料すべてが中国側との契約交渉過程で開示されていたとすれば,それはYの職務行為としてなされたものであり適法でる。しかし,職務上開示した情報を自己または第三者の利益のために利用する行為は,他人に帰属する情報を無権限で自己の利益のため使用するという意味で違法性が認められる。しかしながら,契約成立前にノウハウを開示してしまうというようなことは,実務的にはあまり考えられないことであり,本件の場合にも,契約の成立時またはそのころ(つまり,YがXより退職した後)中国側に開示された可能性が高いように思われる。そうだとすれば,その資料は,YがXに在職中すでにコピーなどにより持ち出していたか,退職後に持ち出したかのいずれかであろう。そうだとすれば,Yの行為の違法性は,前記コルム貿易事件の被告の行為と同様,秘密資料の持ち出しないし盗用に求められるべきであろう。このような構成によるときは,前記のような義務違反による法律構成に付随する不明瞭な問題点を解消することができるばかりではなく,それが在職中であれ,退職後であれ,Yの行為の違法性を根拠付けることができる。 《3》他方,本件と類似の事実関係に関する刑事事件では,業務上横領罪,または,窃盗罪の成立が認められている。そのような先例に沿って考えると,本件Yが在職中に本件の技術資料を持ち出したり,コピーした後返却したような場合には業務上横領の適用が,退職後にそのような行為をした場合には窃盗罪が適用される可能性がある。民事手続ではそのような事実の立証は困難であることが多いかと思われるが,以下にはそれぞれの代表的な例を検討する。 業務上横領罪の成立が認められた事実関係としては次のようなものがある。 被告人Y1は被害会社Nのエンジニアリング本部の部長代理,Y2は同課長,Y3は他社の代表取締役である。この3人の被告人の間で被害会社Nの秘密資料(プラント内の配管などの自動設計製図シシテム)を新会社で利用する目的で社外へ持ち出す共謀が成立した後,Y2は自ら保管義務のある前記資料の一部を事情を知らない事務職員に社外へ持ち出させ,また,他の一部は自ら社外へ持ち出してそれをコピーしたうえ元の場所へ返却した。 なお,本件資料の秘密性については,被害会社の社内規定およびそのシステムが他社との競争上多大の経費・時間をかけて開発された事情により肯定している。本件資料にマル秘の押印がなかったことについては,これは形式的なことであり,秘密資料か否かはその内容により定まると述べている(東京地判昭60.2.13,判時1146−23<新潟鉄工事件>;同旨ナイロン溶融紡糸工程や設備の開発などの職務を負う被告人が保管中のポリエステル製造装置設計図などを社外に売却したケース─神戸地判昭56.3.27,判時1012−35<東洋レーヨン事件>;塩化ビニールなどの研究を職務とする被告人が保管中の塩化ビニールの新規製法に関する研究報告書の写しを退職に際して持ち出したケース─大阪地判昭42.5.31,判時494−74<鐘淵化学事件>)。 窃盗罪の成立が認められた事実関係には次のようなものがある。 被告人3名(1名は厚生技官,他の2名は私企業役員など)が共謀して,国立予防衛生研究所に保管されていた,他社が中央薬事審議会に提出した抗生物質にかかる審議資料などを保管場所から持ち出し被告人の勤務先でコピーしたうえ約7時間後に返却した事例(東京地判昭59.8.31,判時1126−6<新薬産業スパイ第二事件>;被告人Y1と同Y2(厚生技官)が共謀して,国立予防衛生研究所に保管中の他社の新薬申請用部外秘資料を持ち出し,Y1の勤務先でそれをコピーして7時間後および16時間後に分けて元の保管場所に返却した事例─東京地判昭59.6.15,判時1126−3)。 ところで本件の認定事実によると,《1》Yの退職当時本件技術を有していたのはXのみであった,《2》Yの本店所在地(Yの自宅)では,研究設備などはいっさいなく独自の研究開発をできる状態ではなかった,《3》Yが売却などした技術とXの技術は同一であるというのであるから,本件資料の持ち出しやコピーの日時場所などの特定がなくても,Yによる本件資料(コピーによるものを含む)の持ち出しを推認できたのではないかと思われる。 |