判例評釈 |
出願公告決定謄本の送達前の補正が要旨変更に 当たるとされ,先使用の抗弁が認められた事例 |
〔名古屋地裁平成3年7月31日判決,昭和62年(ワ)第3781号特許侵害差止 等請求事件『判例タイムズ』771号240頁,『判例時報』1423号16頁〕 |
木棚照一 |
<事実の概要> |
Xは,昭和51年6月30日に出願し,昭和61年9月12日に出願公告を受けて,昭和62年8月11日に登録を受けた「遊技場における薄型玉貸機」と称する発明に関する特許権(以下,本件特許と略す)の所有者である。Yは,昭和61年11月15日に破産宣告を受けた訴外Aが完成させ,昭和60年7月頃から大量販売を開始していた薄型玉貸機に関する一切の実用新案権,特許権,製造に関するノウハウなどをAの破産管財人より譲り受けて,昭和62年2月頃からこの薄型玉貸機(以下,イ号装置と略す)を製造販売している訴外Bの製造するイ号装置を販売している。Xは,本件特許発明の構成要件をパチンコ台間に配置される薄型玉貸機であること,(B縦状の紙幣と硬貨の挿入口を設け,取り込み通路を別々設けてあること,(C)取り込み通路に少なくとも紙幣と硬貨の検定部を設けたこと,(D)取り込み通路および検定部等でトラブルが発生したときに外部に表示するトラブル表示を別々に設けたこと,(E)AないしDを特徴とする遊技場における薄型玉貸機の5点にあるとしたうえで,イ号装置がこれらの構成要件をすべて充足し,かつ,本件特許発明と同一作用効果を有するとして,Yに対し,その薄型玉貸機の販売等の差止めを請求するとともに,その廃棄を求めて訴を提起した。 |
<判旨> |
請求棄却。
1 「特許権は,行政処分である設定の登録(法66条)により発生するものであり,特許を無効とすべき旨の審決・・・・・・の確定までは,設定の登録に重大かつ明白な瑕疵のない限り,適法かつ有効に存続するものであるところ,本件においては,設定の登録に存する瑕疵が明白であることについての主張立証がない」「仮に,特許発明が出願時に全部公知であったり,公然実施されていたとしても,当該特許を無効とする審決が確定しない以上,当該特許発明の技術的範囲は明細書の特許請求の範囲の記載に基づいて定められると解すべきであって,Y主張のように実施例に限定されると解することは,法70条の規定に反するものであって許されない。」「出願当時において公知であり,または公然と実施されていた技術が明細書の特許請求の範囲に含まれていたとすれば, その特許発明の技術的範囲を具体的に確定するに当たっては,右公知公用の部分を除外して新規な発明の趣旨を明らかにするように制限的に解釈するのが相当である。しかし,明細書の特許請求の範囲に記載された事項の全部が公知であったり, または公然実施されていたものであった場合にも右の方法を推し及ぼせば,特許請求の範囲は皆無であるとせざるを得ず,当該特許を無効と解する場合と何ら相違がないこととなり,設定登録の行政処分性に照らし相当でない結果をもたらす。したがって,右のように公知公用の部分を除外すると新規な発明として意味をなさない場合には,制限的解釈が相当でない場合であるとして,当該特許発明の技術的範囲は,明細書の特許請求の範囲の記載に基づいて定められるべきであるというほかない。このように解したとしても,公知公用の技術に対し誤って付与された特許権に基づく権利行使は,特段の事情のない限り権利の濫用として許されないと考えられるし,また,裁判所としては,必要があるときは審決が確定するまで訴訟手続を中止することもできる(法168条2項)のであるから,Yの主張を採用しなくても,不合理な結果を避けることが可能である。むしろ,Yの主張による場合には,特許権が公知公用の技術に誤って付与された場合でも,明細書に記載された実施例に限っては,特許権に基づく使用の差止を認めるという不合理な結果となるし,また,技術的に余り意味のない細部の構成が実施例と異なる場合にも非侵害と認めるか否か等の疑問を払拭することができないのである」としたうえで,本件明細書の特許請求の範囲に基づいてイ号装置が本件発明の技術的範囲に属するかどうかを検討して,「被告装置は,本件発明の構成要件AないしDのすべてを充足し,同構成要件Eも充足するものであるということができ,かつ,本件発明と同様の作用効果を有するものと認めることができるのであるから,本件発明の技術的範囲に属するものということができる。」とした。 2 (1)「出願公告をすべき旨の決定謄本の送達前にした補正については,出願当初の明細書又は図面に記載された事項の範囲内である限り,特許請求の範囲を変更しても要旨の変更とはされない(法41条)ところ,明細書に直接表現されていなくても出願時に当業者に自明な事項は右の『記載された事項』に含まれるものと解すべきであるが,このような自明な事項に当たるというためには,その発明の技術分野では周知の事項であり, しかも明細書に記載された発明の目的から当業者が判断すれば当然その発明に利用できることが分かるような場合であって,その事項自体が明細書に記載されていたのと同視できるものであることを要すると解すべきである。」 (2)「原明細書に記載された発明は,紙幣鑑別機を内部に含まない複数の自動玉貸機を信号線で紙幣鑑別機に接続することにより紙幣用自動玉貸機を小型化してパチンコ台間に設置可能にするものであって,自動玉貸機内の検定部は紙幣の鑑別機能を有しないものであることが明らかである。したがって,紙幣の鑑別機能を内部に含む紙幣用自動玉貸機をパチンコ台間に設置できるようにするという技術は,原明細書には記載されておらず,また,原明細書に記載されていたのと同視できるものでないことも明らかである。」本件特許公報の検定部に関する記載からみて,「本件明細書においては,検定部は紙幣及び硬貨の真贋判定の機能を有するものとして記載されているということができる。」「そうであるとすれば・・・・・・本件補正は,出願当初の原明細書又は図面に記載された事項の範囲を越えて特許請求の範囲を変更したもの,すなわち,明細書の要旨を変更したものと認めることが相当である。したがって,その余の点については判断するまでもなく,法40条の規定により,本件特許出願は,本件補正に係る手続補正書を提出した昭和60年11月18日にしたものとみなされるというべきである。」 3 「Aは,本件発明の内容を知らずに自ら薄型玉貸機を研究開発し,本件特許権の出願の日とみなされる手続補正書の提出日である昭和60年11月18日当時,現に日本国内においてその製造販売事業を行っており,Bは,その親会社を介してAの破産管財人から薄型玉貸機の製造販売事業とともに先使用による通常実施権を譲り受けたというべきであるから,Bは被告装置の製造販売事業の目的範囲内において先使用による通常実施権を有する者であると認めることができ,Bの販売代理店として被告装置をBから買い受けてこれを販売しているYの営業は,本件特許権を侵害するものではないというべきである(なお,Xは,破産会社の実施に係る事業というものは考えられない旨主張するところ,会社が破産したからといって,当然に従前実施していた事業がなくなるものではないし,また,破産会社が破産宣告により先使用権の対象となる発明を実施する事業を中止したからといって,当然に先使用権を放棄したものということはできないので,・・・・・・Xの主張は採用することができない)。」 |
<評釈> |
1 本件判決は,出願公告前になされた補正が要旨の変更になることが見落とされ,出願公告され,特許登録がされた特許権に基づく差止請求等に関する事例においてその特許出願が特許法40条によって当該補正書の提出の時に繰り下げられるので,先使用に基づく通常実施権を有する者から購入して販売する行為は本件特許権の侵害とならないとする被告側の抗弁を認めたものである。このような要旨変更となる補正は審査官がこれを却下すべきものとされているが(特許法53条1項),要旨変更になるかどうか自体明細書の解釈問題として判断が分かれることがあり得る。本件はこのような場合に,要旨変更と判断された結果出願日が繰り下げられ,その繰り下げられた出願日を基準とすれば特許発明の技術的範囲の全部が公知公用となるか,先使用権の抗弁が可能となる事例に関する。昭和45年の審査請求制度の導入に伴い,出願から出願公告までかなりの時間が経過する場合が生じ,本件のように出願からかなりの時間を経て拒絶査定を受けて補正が行われることも少なくないために,このような問題が生じる可能性はそれ以前より増加した。もっとも,本年(平成5年)の特許法改正によって出願公告前の補正の基準が厳格化され,一方では,原明細書に記載されていない新規事項を補正により取り込むことが禁止され,他方では,要旨変更となる補正による出願日の繰下げが生じないものとされた。したがって,この改正以降は本件のような問題は生じる余地がないとも考えられるが,しかし,新規事項の解釈いかんによっては類似の問題が生じることも完全に否定することはできないようにも思われる。
特許発明が全部公知と認められる場合については,学説・判例上見解が分かれており,特許登録として行政行為の効力との関係で理論的にどのように解すべきか問題がある。本件判決は,このような理論的に見解の分かれる部分についての判断によって直接結論を導くことを回避して,被告の先使用の抗弁を認めたものである。このような事例について先使用権が問題となり得ることは以前より指摘されてきたが,判例上先使用の抗弁を認めたものは珍しく,この種の侵害訴訟における被告側の対抗手段という観点からも注目される。また,先使用権者が破産会社である場合に先使用権の譲渡に関する点や先使用の抗弁が先使用権者自身によるものではなく,その販売代理店から出されている点にも特徴がある。 さらに,本件の事例は特許法29条1項の規定に反して公知公用の発明に対し特許を付与したものであるから,明らかな無効原因が存することを理由として本件発明の技術的範囲を限定解釈して本件明細書に示された実施例に限られるとするXの主張を退けている点(判旨1)も理論的な観点から興味深い。従来の判例は,Xのような主張を認めた実施例限定説に立つものが比較的多く,本件と原告を同一にする類似の事件で大阪地裁が平成2年7月19日にこの見解に従った判決を下しているので(判例時報1390号113頁,土肥一史・判例評論398号43頁<判例時報1409号173頁>),この判例との関係でも検討する必要がある。なお,この大阪地裁の事件については,すでに大阪高裁平成3年11月28日判決(控訴棄却),最高裁平成4年6月26日判決(上告棄却)が出されているので,適宜これらも比較,参照して考えてみたい。 2 まず,判旨1から検討してみたい。特許請求の範囲に記載された技術思想が出願時に既に公知公用のものと認められる場合に侵害訴訟においてどのようにすべきかについて学説・判例が分かれている。一部公知公用の技術思想が含まれているときは,特許権が無効審判によって無効とされない限り侵害訴訟において公知技術については全く考慮すべきではないとする公知技術無視説と特許権の性質からみて出願当時の技術水準を問題とせざるを得ず特許発明の技術的範囲から公知の技術を除いて考えるべきとする公知技術除外説がある。前説は,大審院の判例で取られて以来,昭和30年代前半までの下級審判例で取られてきた見解である。この見解は特許発明のうち公知技術についての差止等を免れようとするなら,まず無効審決を得るべきとするものであって,形式論理的にのみみれば明解な見解であるともいえる。しかし, 出願時に公知の技術の実施であっても無効審判がない限り差止を認める点で妥当ではない(設楽隆一「特許発明が全部公知である場合の技術範囲の解釈」牧野利秋編『工業所有権訴訟法(裁判実務大系9)』(1985年,青林書院)138頁)。昭和30年代後半の二つの最高裁小法廷判決(最高裁昭和37年12月7日第二小法廷判決民集16巻12号2321頁,同39年8月4日第三小法廷判決民集18巻7号1321頁)を契機として,判例上も後説が取られるようになってきた(これらの判例の変遷については,田倉整「特許侵害訴訟における無効理由」石黒淳平先生追悼論集『無体財産権法の諸問題』<1980年,法律文化社>110頁以下参照)。本件判旨もこの点では「公知公用の部分を除外して・・・・・・制限的に解するのが相当である」として,このような判例の傾向に賛成している。 このような立場に立つと,侵害訴訟においては,特許庁の無効審判手続と一応別に無効理由である公知公用に立ち入り判断することになるが,特許発明の技術的範囲の全部が公知である場合についてどのように考えるべきかという問題が生じる。全部公知という場合には,特許発明が全部公知の場合と特許発明が公知技術の寄せ集めである場合とに分けられるが,本件は前者の事例であると解される。一般に行政行為の無効を民事事件の先決問題として裁判所が判断できるのはその行政行為に「重大かつ明白な瑕疵」があることが必要であるとするのが従来の行政法の通説的見解である。もっとも,この要件を柔軟化して,明白性の要件は,事案の類型ごとの補充的加重要件に過ぎないとする説もみられる(塩野宏『行政法1』<1991年,有斐閣>120 頁以下)。本件判旨は,通説的見解に従って行政処分である本件特許登録がそのような要件を満たしている旨の主張立証がないとしていることになる。そうすると,前述の公知技術除外説を全部公知の場合にそのまま推し及ぼすと,特許発明の全部に及び,空虚な権利を生じさせることになる,との批判が可能になる(染野義信・判例研究民商法雑誌49巻3月313頁)。本件判旨はこの点を考慮して「公知公用の部分を除外すると新規な発明として意味をなさない場合」をこのような説を適用するのが相当でない場合とするのである。 この点に関連して説かれるのが,限定解釈説ないし実施例限定説である。この説から次のように説かれる。つまり,「何人も自由であるべきはずの技術の利用を,誤って付与された特許によって突如制限することは,わが特許制度のもとではやむを得ないにしても,まことに不合理なことである。ゆえに,将来無効とせられるべき特許の効力は最も狭く限定解釈して,ほんらい公共の財産であるべき技術思想の利用に対する不当の制限を,できるだけ縮小することは,まさに衡平の理念にかなうゆえんである。」と(馬瀬文夫「公知事項を対象とする特許の効力」石黒・馬瀬先生還暦記念『工業所有権法の諸問題』<1972年,法律文化社>82頁)。さらに,「実施例と一致する対象に限られるべきである」とされる(村林隆一「全部公知の特許発明と技術範囲」『ル日本工業所有権法学会年報』2号96頁等)。前述の大阪地裁判決のほか,多数の判例によって取られている。本件のYの主張もこのような見解に基づくものである。確かに,特許法70条により,明細書に記載された特許請求の範囲に基づいて定められるとしても,合理的理由があればこれを制限的に解することはできないわけではないであろう。しかし,何故に,全部公知の場合に実施例に限定されるのか,その合理的理由は前述の見解の説明によっても明らかではない。万人の共有財産としての公知の技術について,明細書に記載された実施例の範囲内で特許権による差止を認めるのが何故であるか明らかとならない。たとえば,特許権が無効審判によって無効とされない限り適法かつ有効に存続する以上,空虚な権利となることを避けるための最低限度の効力が認められなければならないからであり,それが明細書に記載された実施例の範囲内であるといっても,なお必ずしも説得的ではない。最低限度の効力がなぜ実施例になるのか,それが実際上も妥当であるかが問題となるからである。また,技術的に余り意義のない細部の構成が記載された実施例と異なるからといって特許侵害としない根拠も明らかにならない。これらの点は判旨の指摘するとおりであるが,さらに,実施例限定説に立つことは特許法70条の規定と反すると明確に言及する点が注目される。この点を明言した判例としておそらく最初の判例ではないかと思われる。この点は従来のわが国の判例におけるクレーム解釈の傾向からみてきわめて重要な点であるといえよう。また,クレームを実施例に限定して解釈することを禁止したWIPOハーモ条約1991年草案21条4項とも符号する。とはいえ,本件判決においても実施例からクレームを解釈しているのではないかと思われる部分もある点は否定することはできない。 判旨は,Yの主張する実施例限定説に立たないとしても不合理な結果を避け得るとして,特許法168条2項の訴訟手続の中止とともに,いわば傍論的に権利濫用論により得ることを掲げる。権利濫用論も特許発明の技術的範囲が全部公知の場合に関する有力な見解の一つにほかならない。たとえば,「特許発明が全部公知であることが侵害訴訟における審理の結果明白であり,無効審判請求によりその特許が無効となることが確実である場合,相手方(被告)が公知技術を実施しているに過ぎないのに,特許権を有することを理由に差止あるいは損害賠償を請求することは,信義誠実の原則に反することであり,権利の濫用となる。」とされる(竹田稔「特許発明の技術的範囲3」発明88巻3号112頁)。確かに,この見解は制定法上の根拠を求めることができる点で説得力を有する。もっとも,実際に権利濫用として権利行使を認めなかった判例としては,名古屋地裁昭和51年11月26日判決(判例時報852号95頁)があるが,他人の特許出願に対し新規性がないとして異議申立をした者が出願人等と特許権を共有とすることにして異議を取り下げて特許権を取得したうえで特許侵害による差止を求めた事例であり,権利行使者の主観的要件が明らかな事例についてである。権利濫用論は,本来権利自体に何ら瑕疵なく,ただその行使のあり方が権利の社会性からみて許されない場合について適用されるものである。権利の明らかな瑕疵が権利の行使のあり方に影響するとみて,これを瑕疵のある権利の行使に拡張するとしても,少なくともその場合は,権利行使者の主観的要件が厳格に要求されるべきではなかろうか。そうとすれば,本件のように補正によって出願日が繰り下がったために特許発明が全部公知になった場合には,権利濫用論は適用できないことになるのではあるまいか。確かに,工業所有権については,たとえば商標権に関するポパイ事件の最高裁判決(最高裁平成2年7月20日第三小法廷判決,民集44巻87頁)のように主観的要件を問題としないで権利濫用を認めた判例もみられるが,しかし,少なくとも本件のような,特許庁が要旨変更を見落としたために権利に瑕疵が生じた場合の権利者の権利行使にまで主観的要件を不要とすることは妥当性を欠くであろう。 このように考えると,やはり,特許発明の一部公知の場合には公知技術除外説をとりながら,全部公知の場合には,このような特許発明の技術的範囲を制限する見解をとることが相当でない場合として区別する見解自体に問題があるのではなかろうか。本件の事案と離れるが,先使用の要件を被告が証明することができず,被告の先使用の抗弁が認められない場合に,判旨1のような立場をとると,特許発明が実は万人の共有財産として本来自由に使用することができる公知の技術にすぎないことが明らかになったにもかかわらず,無効審判が確定しない限りその特許権による差止や損害賠償を認めざるを得ないことになる場合が生じ,不合理な解決に甘んじなければならなくなるのではあるまいか。当該紛争の適切な解決を任務とする裁判所としては,このような場合に,公知技術除外説をさらに推し進めて,ドイツの学説や判例が認めているような自由な技術水準の抗弁を認めるべきではないかとも考えられる(この点については,たとえば,Georg Benkard,Patantgesetz,8.Aufl.(1988)S.400,S.494ff.および,中山信弘「特許侵害訴訟と公知技術」法学協会雑誌98巻9号1140頁以下参照)。本件判決では,先使用権が認められるとの判断から,この点に関する困難な問題にあえて触れてはいないが,先使用権によってこのような問題が回避される範囲は必ずしも広くはない。実は,本件の場合についても,後に述べるように,先使用権の要件が具備されているかどうかにつき争いの余地があるのである。 ドイツの判例や通説は,従来の三分説でいわゆる「特許の直接の対象」の範囲内ではこのような抗弁は認めてはおらず,実施形式が等価的利用であると主張される場合にのみ自由な技術水準の抗弁を認めていることから,日本においても本件のように特許請求の範囲の文言に直接あてはまるような事例についてはこのような抗弁を認めるべきではないとする見解がある(大瀬戸豪志「特許侵害訴訟における自由技術の抗弁」パテント46巻7号17頁以下)。ドイツにおいてこのような限定がつけられるのは,理論的には特許付与機関と通常裁判所の権限分配に基づく。しかし,自由な技術水準の抗弁というのは,特許権自体の有効,無効を問題とするものではなく,当該の侵害訴訟における抗弁を認めるに過ぎないことはいうまでもないから,特許無効審判の制度と抵触したり,矛盾したりするものではないはずである。少なくとも,特許侵害訴訟の中で公知公用が明らかになった場合でも,特許無効審判が確定しない限り特許侵害としなければならないとするのは余りにも硬直的な解釈ではあるまいか。この点に関するドイツの通説・判例の理論は,ドイツにおける特許無効審判制度が二審制でしかも迅速に行われることから,あえてクレームの語義の範囲内にはいる侵害についてまでこのような抗弁を認める必要がないことと関連していないであろうか。わが国におけるように特許無効審判の確定に長期間を要することが少なくない国においては,ドイツの理論をそのまま継受するべきではないであろう。さらに,制定法上の根拠規定を欠くこともこのような抗弁を認めることの反対理由としてあげられるが,しかし,万人共有の財産である公知の技術に特許による独占が及ぶべきでないことは,そもそも19世紀のヨーロッパで特許制度の是非が議論されたとき以来広く認められてきた基本原則であるといえるのではあるまいか。自由な技術水準の抗弁は,このような原則から直接導かれる解釈論であって,制定法上直接それを認めるような根拠規定がなければ認められないという性質のものではないはずである。逆にいえば,侵害訴訟において特許発明が全部公知であることが明白になった場合でも自由な技術水準の抗弁を認めないで,特許権者がこのような公知の技術の範囲まで独占することができるとすることは制定法上果たして根拠を持つものであるといえるのであろうか。 3 判旨2は,本件の補正が要旨の変更に当たるかどうかに関する。ここで要旨の変更とは,明細書の要旨の変更を意味し,それは,本来出願当時の明細書(以下,原明細書という)の特許請求の範囲に記載された技術的事項が実質的に変更することをいうが,これには例外が認められている。つまり,出願公告決定謄本送達前の補正については,原明細書に記載した事項の範囲内の変更であれば,要旨変更でないとみなすとされている(特許法41条)。さらに,原明細書に記載した事項とは,出願時に当業者が原明細書に記載されている技術内容からみて,記載してあったと認めることができる自明の事項を含むものとされている(吉藤幸朔『特許法概説[第8版増補]』<1989年,有斐閣>224頁)。何が具体的に要旨の変更に当たるかは,個別的,具体的に原明細書と補正後の明細書を比較して判断するほかないといわれている。 ところで,原明細書においては,特許請求の範囲として「所定の商品交換媒介物を鑑別する鑑別機と,この鑑別機を共用しそれぞれ投入された所定の商品交換媒介物を検定して検定信号を前記鑑別機に伝達すると共にこの鑑別機から伝送されてきた鑑別結果に応じて商品交換媒介物と商品との少なくとも一方を送出する複数の自動交換機とを具備することを特徴とする自動交換装置。」と記載され,明細書をみても検定部とは別に鑑別機を設置することを前提としている。ところが,補正後の明細書には,本件発明の構成要件(C)の検定部に関し「紙幣と硬貨の正偽等を判別する検定部」と記載されているので,検定部に鑑別機能を付加したと認められることなどから,YはXのした補正が要旨の変更に当たると主張した。それに対し,Xは,一方では出願時に検定部と一体化したコンパクトな鑑別部を備えた紙幣鑑別機が公知であったと主張するとともに,他方では発明の構成要件としては「少なくとも検定部」の存在を持って足りるとしているのであって,鑑別部をどのようにするかは実施の際の選択に譲り,発明の必須の構成要件としないものとしたにすぎないと主張した。本件判旨2も,補正後の明細書の検定部に鑑別機能を含むと認めたうえで,原明細書の発明は「自動交換機の小型化を安価に実現することを目的とするもの」と認定し,「紙幣の鑑別機能を内部に含む・・・・・・技術は,原明細書に記載されて」いないとし,「当時市販されていた紙幣用鑑別機は・・・・・・薄型貸玉機の内部に設置することができるほど小型化されたものであったと認めることができ」ないとし,要旨変更に当たることを認めている。 原明細書記載の検定部に紙幣鑑別機能が含まれていないのに,補正明細書記載の検定部に鑑別機能が含まれているとすれば,元の出願時である昭和51年6月30日当時,紙幣鑑別機能を薄型玉貸機の内部に含ませる技術が当業者に自明の事項であったかどうかが問題となる。この点については,そのような技術を可能とする小型の紙幣用鑑別機が当業者に自明の事項であったかどうかが重要な要件となるが,それはそのような小型の紙幣用鑑別機が市販されていたかどうかの問題と同じではない。当時硬貨用鑑別機を薄型玉貸機の内部に取り込む技術は原明細書にすでに記載されているのであるから,現実にそのような小型の紙幣用鑑別機が市販されていなくとも,当業者に技術情報としてそのようなものが自明のこととして知られていれば,この要件を満たすからである。この点に関する判旨の認定は不十分であるといわざるを得ない。 本件と原告および特許発明を同一にする大阪地裁の事件の上告審判決である最高裁平成4年6月26日第二小法廷判決の上告理由をみると,本件補正に要旨変更があることを前提とした無効審判請求に対し,特許庁はこれを理由なしとしたのに対し,東京高裁は,原明細書の検定部について紙幣に関してはデータを収集する機能のみを有し,硬貨に関しては鑑別機能も有するものと記載されていると認め,補正明細書は検定部に硬貨のみならず紙幣の鑑別機能をも有すると記載されているとして,要旨変更に当たるとして,審決を取り消した,とされている。そうとすれば,本件の要旨変更の判断について特許庁と裁判所で判断が異なったことになる。その詳細については手元の資料ではわからない。しかし,原明細書と補正明細書の記載を比較検討をする限り,原明細書の検定部には紙幣鑑別機能が含まれていないとみられるのに,補正明細書の検定部にはそれが含まれるような記載となっていることは否定することができないように思われる。Xは,原出願の時にすでに小型の紙幣鑑別機が公知であったと主張するが,その点も含めて当業者に自明な事項であったことが十分証明できていないのではなかろうか。判旨2については,以上述べたように,疑問の残る部分もあるが,結論的には支持せざるを得ない。 4 判旨3は,まず,先使用権の成立要件に関わり,(1)イ号装置が本件特許発明の技術的範囲に属すること,(2)Aが本件特許発明の内容を知らずに自らイ号装置を研究開発したこと,(3)補正によって繰り下げられた出願日に現に日本国内で発明の実施である事業を行っていたことを認定して,Aの先使用権の成立を認めている。この点について,本件のような事例で問題となるとすれば,(2)の要件との関連であろう。特許法79条が二重発明の場合にのみ適用されるべきかどうかについては学説上は争いがある。しかし,私は,この点に関連して,二重発明によって発明権を有する者が他の発明権を有する者が先に出願したために特許を取得することができない場合であっても,その出願日に当該発明を事実上支配していたときは,発明の使用権を従来どおり認めることが公平の観念に合致する点に特許法79条の実質的根拠を求め,特許法79条がその文言通り二重発明の場合にのみ適用されるべきと考えた(判例評論312号42頁<判例時報1136号204頁>)。理論的にどのように解するか、は種々議論があり得るであろうが,現行規定上も結論的に発明知得の経路を問題とする見解は有力である(たとえば,飯田秀郷「先使用権(1)−発生要件事実」牧野編・前掲書311頁参照)。このような見解を前提として,本件のように補正によって出願日が繰り下がる場合には,Xが発明の知得経路を争えばこの要件の証明が困難な場合も生じるであろう。つまり,Aが本件特許の出願公開公報をみたり,すでに市場に出ていたXの製品から発明の基本思想を知得したとして争えば,そうでないことの実質的挙証責任はYにあるのだから,証明が難しくなるであろう。(3)の要件についても,特許法79条括弧書との関係で文言通り「もとの特許出願の際または手続補正書を提出した際」のいずれかを基準とすれば足りるか,40条によって繰り下げられた出願日を基準とすべきか議論が分かれる(たとえば,飯田・前掲(2)309頁参照)。本件の判旨はそのいずれをとるか明らかではないが,いずれによっても結論は変わらない。 つぎに,判旨は,Aの破産によって先使用権が当然に放棄されたものとみるべきではないとしたうえで,BがAの破産管財人からAの事業とともに先使用権を譲渡されたものとしている。先使用権者が破産した場合に,先使用権の譲渡を認めた珍しい判例として注目される。先使用権の黙示の放棄の認定は慎重になされるべきであるが,たとえば,実施の長期にわたる中断があればこの放棄に当たるとみてよい,といわれている(たとえば飯田・前掲319頁参照)。本件は,Aが昭和61年11月15日に破産宣告を受けて後,同年12月15日にBの親会社がAの破産管財人と譲渡合意をし,翌62年2月10日にBが設立されている。おそらくその間の実施の中断は長期にわたるものではないであろう。判旨は先使用権者の破産によって当然に先使用権が放棄されたものとみることができないことを明らかにしたものであるが,それによって長期間の実施の中断が生じている事例に関するものではない点に注意すべきであろう。特許法94条によると,先使用権は実施の事業とともに譲渡することが必要であるが,本件もこのような要件を満たしているものと認められている。 さらに,本件における先使用の抗弁が先使用権者自身からではなく,先使用権者の販売代理店によって援用されている事例である点も特徴がある。もっとも,この点はすでに本件以前にも,先使用権者から購入して販売し,または,販売のために宣伝活動をすることは権利侵害とならない旨の判例があり(たとえば,東京地裁昭和39年10月13日判決,判例タイムズ168号152頁),この点について判例が加わったにすぎないといえよう。 |