発明 Vol.87 1990-11
判例評釈
「動書」が美術の範囲に属する書の著作物と認め
られ,その字体に類似する看板文字の字体につ
いて,書の複製権は及ばないとされた事例
〔東京地裁平成元年11月10日判決(確定)
:昭和62年(ワ)第113ワ号,判例時報1330号118頁〕
千野直邦
<事実の概要>

 書家であるXは,自ら創作した動書と称する書体で一連の文字(以下「本件書」と総称する。)を書し,これを昭和47年4月25日発行の出版物「動書」にXの著作者名を表示して複製・掲載した。Xは,第三者に対し,本件書を題字等として複製し展示することを許諾し,その許諾料は1つの題字について4字以内を1件,4字を超えるときは1字増すごとに0.25件を加えるものとし,1年間について1件当り,昭和51年から同53年までは4万円,同54年から同56年までは6万円,同57年は8万円,同58年は10万円,同59年からは20万円とし,看板等を2カ所以上に設置して使用する場合には,2カ所目以降は,1力所当たりの額の2分の1としている。
 他方,Yの経営する整骨院本院および分院4カ所の計5カ所にはYの制作に係る「横山整骨院」と書かれた看板(以下「本件看板A」という。)が設置され,またYの経営するスナックにはYの制作に係る「鶴」と書かれた看板(以下「本件看板B」という。)が設置されていた。Xは,Yらの本件看板AおよびBの制作,展示はそれぞれ著作物である本件書の複製に当たり,かつ,本件看板AおよびBにはXの氏名を表示していないから,Xが本件看板について有する複製権および氏名表示権を侵害するものであり,いずれの行為も故意あるいは過失に基づくもので,また,YとYの各行為およびYとYの各行為はそれぞれ共同不法行為を構成するものであるとして損害賠償の請求をした。
 これに対し,Yらは,本件書は,純粋な美術作品というよりは,むしろ,使用料を徴収したうえで複数回にわたって使用を認めるという本来的性格を有するものであり,情報伝達という実用的機能を果たすものとして公表されているのであるとして,その著作物性を否認するとともに,仮に本件書が著作物性を有するとしても,書は文字を題材とした表現であり,かつ書体には著作物性を認めるべきではないから,これをそっくりそのままの形で複写した場合などのほかは複製とはいえない,などと主張して争った。その抗弁に対し,Xは,筆写文字による書は墨の濃淡および筆勢(筆法),点や線の形とその組み合わせによる字全体の形(構成)などの表現による著作物であるから,これらの各要素を対比することにより,多少の違いがあっても,全体として同一性が維持されている限り,複製と判断されるべきである,などと反論した。


<判旨>
棄却。
 「Y及びYは,文字の書体に著作物性を認めるべきではないということを前提として,本件書には著作物性がない旨主張するが,Xは,自ら書した本件書を書の著作物として主張しているのであって,その書によって表されているもののうち,書体のみを著作物であるとして主張しているものでないことは,その主張に照らして明らかであるところ,(中略)本件書は,Xがその思想又は感情を創作的に表現したものであって,美術の範囲に属する書としての著作物であると認めることができる。そして,仮に,同Yらのいうように,Xにおいて,本件書を書した後これを使用する者から使用料を徴収するなどの行為をしたとしても,そのことによって,本件書の著作物性が失われるものでない。」
 「Xは,本件看板A及びBに表示されている文字の字体が本件書の字体に類似していることをもって,Yらの行為が本件書の複製に当たる旨主張しているものと解される。
 しかしながら,文字自体の字体は,本来,著作物性を有するものではなく,したがってまた,これに特定人の独占的排他的権利が認められるものではなく,更に,書の字体は,同一人が書したものであっても,多くの異なったものとなりうるのであるから,単にこれと類似するからといって,その範囲にまで独占的な権利を認めるとすれば,その範囲は広範に及び,文字自体の字体に著作物性を認め,これにかかる権利を認めるに等しいことになるおそれがあるものといわざるをえない。したがって,書については,単にその字体に類似するからといって,そのことから直ちに書を複製したものということはできない,と解すべきである。
 これを本件についてみるに,本件書とこれに対応する本件看板A及びBに表示されている文字とを対比すると,各字体の間には,一見して明らかな相違があるか,せいぜい字体が単に類似するにすぎないものと認められるから,Yらの行為をもって,本件書を複製したものとすることは困難であるというほかはない。なお,両者が,字体以外の要素,例えば,墨の濃淡,かすれ具合,筆の勢い等の点について類似していることを認めるに足りる証拠も存しない。」

<判旨>(請求棄却)
 「アメ横」なる名称はXの営業表示ではない。これは,本件地域内の通りないし地区の通称である。「アメヤ横丁」が略称されたものである。
 周知性を有する営業表示と認めるためには営業とともに名称を承継することが前提である。本件地域の商店群は個々の商店ごとに各別に営業を行うもので,この商店群を一つの営業主体ということはできない。商店群全体の通称である「アメ横」なる名称は営業の表示ではない。また,本件地域の個々の商店の営業を表示するものではない。
 有償で「アメ横」という名称の使用許諾したこと,無断使用者に警告・仮処分を求めたことは,事実上管理したものにすぎない。
 「アメ横」という名称の周知性を高めたとしても,X自身の営業表示として広く知られたのではない。
 「アメ横」という名称ないし表示は,不正競争防止法1条1項2号にいう「広ク認識セラルル他人ノ営業タルコトヲ示ス表示」であるとは認められない。Xの請求は,その余の点について判断するまでもなく理由がない。

<評釈>
 1. 本件は,「動書」と称される独特の筆致(書体で描かれた書の著作物性とその複製権の範囲をめぐって争われた事例であって,他にも同一人(雅号「檀琢哉」)の書に関する裁判例(東京地判昭和60.10.30判時1168号145頁,東京地判昭和63.8.29判時1286号141頁)が存在する。
 著作権法は,著作物の例示中,美術の分野については「絵画,版画,彫刻その他の美術の著作物」(10条1項4号)を掲げ,書を著作物として明示していない。だが,現行著作権法の制定に当って,著作権制度審議会答申は,著作権法上保護される書につき,「書は,いわゆる前衛書道,墨書と称せられる抽象絵画類似の書に限らず,古来の書についても美術的書である限り,美術の著作物として保護されるべきものと考える」と述べている(同審議会審議記録(一)55頁,国立国会図書館調査立法考査局・著作権法改正の諸問題374頁)。書は文字の形や墨の濃淡,筆勢,字集団の構成美,書の線,余白等で表現される純粋美術であって,その多くは美術の著作物として保護すべきものと考えられる。本件において「動書」とは,Xによれば,「静は死に通じ動は生を現す,あるいは,生命は動に宿すといったXの思想を立体躍動の筆法,構成により表現した美的鑑賞の対象となる書である」と定義されている。
 本判決は,書の著作物性を認めたうえで,書の著作物の複製の範囲を限定的に解した最初の事例である。本件判決の結論は正当のようであるが,判旨においては必ずしも明確でない部分があり,議論の余地もある。

 2. 本件判旨は,単に本件書が著作権法2条1項1号の美術の範囲に属する書としての著作物に該当するものであると述べているだけで,その理由付けを欠いている。このような判示の仕方は,「動書書体」事件の最初の裁判例である東京地裁昭和60年10月30日判決に従ったものであるが,本判旨では書自体と書の字体とを区別し,前者に著作物性を肯定して,いる。書が著作物たりうる点については異論はなく,「動書」は絵画と同様に考えればよいことになる。書が絵画と異なる点は,意思伝達の記号である文字を用いることにあるが,著作物の表現形式として記号・符号の類を用いることについては,「総選挙当落予想表」事件において東京高裁昭和62年2月19日判決が○△▲等の符号を付した原稿を著作物として認めているところであり(判時1225号111頁,同一審・東京地判昭和61.3.3判時1183号148頁,千野直邦・特許管理38巻9号1199頁<同事件控訴審判決評釈>参照),その限りでは問題はない。
 YおよびYは,Xが本件書を出版物に発表することによってデザインの排他化・独占化を図り,許諾料の徴収を意図する以上,本件書は文字等が本来有する情報伝達という実用機能を果たすもので,美的な鑑賞の対象になるとは言い難いなどと主張している。これに対し,本件判旨は,本件書を美術の著作物と認めた後,「仮に,同Yらのいうように,Xにおいて,本件書を書した後,これを使用する者から使用料を徴収するなどの行為をしたとしても,そのことによって,本件書の著作物性が失われるものでない。」と述べている。本判旨の立場は,東京地裁昭和60年10月30日判決が,「なお,知的,文化的精神活動の所産と言い得るか否かは,創作されたものが社会的にどのように利用されるかとは必ずしも関係がないものというべきである」と述べた判旨の判断枠組みを踏襲している。この判旨において,現実的社会的利用方法すなわち実用的機能が著作物性の有無の認定と必ずしも関係がないとする点は,その理由付けを欠き,多少議論の余地があるかもしれないが,応用美術の範囲の書にも著作物性を積極的に認め得るとしていないため,その限りでは問題はないように思われる(上記60年判決の「なお書」部分の判旨は当然と解する見解として,大家重夫「『動書』書体著作物事件」特許管理37巻1号41頁)。
 これに対し,「ヤギ・ボールド」事件の一審判決である東京地裁昭和54年3月9日判決は,書と花文字について,「美術的書においては,たしかに文字が書かれてはいるが,それは情報伝達という実用的機能を果たすことを目的とせず,専ら美を表現するための素材に止まり,そのことによって,通常美術鑑賞の対象とされるのである。これは『花文字』についても同様である。文字に装飾が施され,社会的には『花文字』といわれるものであっても,それが書籍のテキスト等に使用され,情報伝達のための実用的記号として機能するものであるかぎり,いまだ著作物とはいえ[ない]」と判示しているが(判時934号74頁),この判旨は創作性の要件と実用性の関係を重視しすぎているのではないかと思われる。この判例の後に判示された本件書のように,実用的機能を果たしつつも,それが当初創作された時点で著作物性を肯定するのが妥当な場合があると解されるからである。この点に関し,「仏壇彫刻」事件における神戸地裁姫路支部昭和54年7月9日判決は,応用美術中,それが純粋美術と同視しうるものか否かの判断基準として,「そこに表現された美的表象を美術的に鑑賞することに主目的がある」「換言すれば,・・・・・・高度の美的表現を目的とするもの」か否かを掲げているが(無体例集11巻2号371頁),ここでの主目的は美的表現であれば足り,「高度」のものである必要はない。この基準にしたがえば,他人の書の盗作でなく,美術的な個性の表現の跡が情報伝達機能以上に認められるならば書の著作物と解されようが,それが実用目的と桔抗する場合には,同基準ではその可否を決し難い。むしろ,その判断基準は,同判例でも判示しているように,「そのものだけ独立して美的鑑賞の対象となしうる」か否かに求めるべきであろう。この基準は,まさに,純粋美術の保護基準であるといいうるからである。

 3. 本件判旨は,書が文字を題材とした表現であることを前提にして,文字自体の字体には著作物性がない旨判示し,書の字体が単に類似するにとどまる場合には,そのことから直ちに書を複製したものということはできないと述べている。
 著作権侵害訴訟においては,複製の事実を直接証拠によって証明することは困難である場合が多く,原告の著作物との同一性や依拠関係の存在等の間接事実の積み重ねによって侵害の有無を判断するのが通常である(最判昭和53.9.7民集32巻6号1145頁)。依拠関係の存在については,被告は容易に認めず,被告が原告の著作物にアクセスする機会があったことなどの状況証拠によって立証されるのが普通である。そこで,この侵害の有無の問題は同一性の有無となるが,そっくりそのままの模倣事件は例外であり,著作権侵害事件の大部分は巧妙なやり方での複製に関するものである。したがって,デッド・コピーだけを禁止する法および解釈は,保護なきに等しい。著作権法2条1項15号は,複製の定義を「印刷,写真,複写,録音,録画その他の方法により有形的に再製することをいい,・・・・・・」としているが,再製といっても,必ずしも原著作物と全く同一のものを作成する必要はなく,多少の修正増減が施されていても著作物の同一性が維持されているかぎり,同一物の複製に当り,著作権者の有する複製権はこれに及ぶと解されている(大判明治37.4.21刑録l0輯848頁,大判昭和10.5.24刑集14巻8号560頁,神戸地姫路判昭和54.7.9無体例集11巻2号371頁)。
 だが,そっくりそのままの要件が複製の基準でなくなると,この同一性の基準が明確でなくなり,侵害の有無の判定にあたって,裁判所は2つの困難な著作権問題に直面することになる。その1つは,問題の2つの作品の類似性がどのくらい著しいかを決定しなければならないことである。ここに全体構造の類似性と部分的なコピーを総合的に考慮する必要が生じ,米国の判例においては,実質的類似性(substantialsimilarity)の観念が導入されることとなる (この観念については,NIMMERONCOPYRIGHT§13.03[A],13〜23頁参照)。2つには,この実質的類似性は複製に基づくものか,独自の創作に基づくものなのかを決定しなければならないことである。問題の両作品が類似していても,偶然の一致である場合には侵害にならない。
 実質的類似性の証拠として,《1》部分的な文字通りの類似性,《2》文字通りでない包括的な類似性,《3》行動があげられている(Davidson,CommonLaw,UncommonSoftware,47U.PITT.L.REV.1037,1085(1986)参照)。実質的類似性の観念は,多くの事件において類似性の判断枠組みとして機能しうるものと思われる。ただ,その際注意すべきは,部分的なコピー(特に間違い,不必要な部分,任意性の高い部分,通常でない方法,ワナ,外観の特徴などは全体的な類似性の判断要素として用いられているのであるから具体的な事件においてその量と質を評価する必要があること,また,部分的コピーがまったくなくとも構造的な類似性が相当程度及んでいれば実質的類似性が認定される場合のありうることである(D.S.カージャラ・椙山敬士『【日本−アメリカ】コンピュータ・著作権法』195頁参照)。なお,問題の両作品を比較するという従来の単純な類似性の判断のみでは新規の作品に関して複製の有無の判断が困難なことがある。この場合には,著作権侵害の判断要素として,両当事者間の契約関係の有無,人間関係,広告その他の行動など類似性以外の要素も取り上げざるをえなくなる。
 本件の具体的事案においては,判旨は,「本件書とこれに対応する本件看板AおよびBに表示されている文字を対比すると,各字体の間には,一見して明らかな相違があるか,せいぜい字体が単に類似するにすぎない」と判示し,字体以外の要素である墨の濃淡,かすれ具合,筆勢等の点については類似の立証がない旨述べて,複製行為を否定している。本件書は,文字を題材として表現され,そのうちでも字体が最も大きな要素をなすものと解されるので,本判決のような認定も可能であろう。東京地裁昭和60年10月30日判決は,動書中の文字をそのまま縮小して使用された文字につき,「極めてよく類似して[いる]」とし,縮小した各文字を書の複製物と認定している。これに対し,本件判旨が著作物たる書につき複製の範囲を限定的に解して,「単なる類似物」を複製物と認定しなかったのは,文字自体の字体は万人共有の文化的財産で本来著作物性がなく,書の字体に類似する範囲にまで書の複製権の範囲を及ぼすと,文字自体の字体に著作物性を認めるに等しくなるおそれがあるという理由による。だが,書の無断使用者は容易にその一部を変形できるので,文字万人共有財産説を前提として,複製要件の解釈・運用をあまり厳格にするときは,実際上,著作権法に基づく救済の途を狭めることになりかねない。したがって,書についても,一般の著作物の場合と同様に,この要件は,必ずしもデッド・コピーに限定する必要はなく,書の本質的特徴を抽出しうる程度の技術的改変は無視すべきものと解される。
 また,書について,個々の文字の比較という単純な類似性判断にとどめている本件判旨の認定方法には疑問を抱かざるをえない。問題とされる文字が多くなればなるほど,個々の文字の比較では足らず,むしろ全体構造の類似性と部分的なコピーを総合的に評価せざるをえないはずである。その際,一般の美術鑑賞家の目を通して判定すればよいのか,それとも書家の判断を基準とすべきか,といった点についても,検討することが要請されよう。本件看板Aについてはかかる観点から検討されてしかるべき場合ではなかろうか。


(もの なおくに:創価大学法学部教授)